創世記26章1節から14節、マタイ7章7節から12節 平和の共同体の心得―苦難から救い出す神の恵み― 苦難、わたし達には絶え間なく与えられている苦難。昨年は東日本大震災による苦難が与えられました。病、老い、苦しみ、死が世にある現実だとブッタは言いました。その人間の根源的な状態について聖書では「救われる」という救いが示されています。救われない、もうだめだ、滅亡だと諦めてしまっている人間に、否!というメッセージを与えているのが、聖書全体の話でしょう。「災い転じて福となる」となるということ、神を主語にするなら災い転じて福となすというこが聖書には書かれていることです。 わたし自身に与えられる苦難で、経験上、わたしが最も恐れているのが「やる気」のなさです。私からやる気を取ったなら、生ける屍です。ですから、例えば、あまり責任ある立場に立たないとか、欲を出さないとか、睡眠を取るようにするとか、妬まないようにすることか、距離をとるようにするとか、いろいろ工夫をしています。苦難があることによって、自分が苦難を乗り越える智恵を生み出す、プラス面もあることに気づかされます。これは神から与えられる苦難艱難からの逃れの道なのかもしれません。 イサクに与えられた苦難―飢饉― イサクが遭遇した飢饉。この飢饉をどうやって生き延びたか、といいますと、不思議にも敵対するぺリシテ人の王アビメレクによって飢饉から助けだされました。アブラハムのときも飢饉はエジプトのファラオから助けてもらい(12章10-20節)、更に、カデシュとシュルの間の地(ゲラルのぺリシテ人の王の土地)でも王のアビメレクから住む土地を得たり、牛や羊の財産となるものを頂きました(20章)。苦難を自分の力で乗り越えたというより、周りの力で乗り切ってこられたような感じです。飢饉は2度目ですが、2度ともイスラエルとは無関係の民族から具体的な助けを得ています。自然災害は人智の及ばないものがありますが、聖書は、それを切り抜けることができると、語っています。信者、非信者関係なく神が用いて救うのです。イエスキリストを主と信じる者はそのことを知り経験しているものです。 神は苦難や艱難から人々をすべて、救い出される方です。「すべて苦労している者は私のもとに来なさい。やすませてあげよう。(マタイ11:28)」という聖句もあります。苦労しているとき、すべての人は休ませてもらえる、苦難から救い出してくれる、神はそういう神だと聖書に示されているように思います。イエスキリストの信仰者はそれを知るものです。 災難に遭うということは自分の弱さをこと如く知らされるという事でもあるかもしれません。そして、信仰者は神に救いを求めて生きます。神に選ばれしものとは弱い者。その弱さを自覚し、弱き罪人が、神に祈り、より頼む事によって、神は、周囲の強い者を神が用いて、弱い者と共に生かしてうれているのが、現実なのかもしれません。わたしの経験からするとその通りです。神にゆだねる私たちは弱い存在でありながら(そう自覚させられながら)、しかし、生きる希望の道も与えられるのです。 求めることとは何か? 神に選ばれし、弱い私たちは普通、普段、いろいろなものを求めています。弱い者ですから、強い者や能力のある者からの助けや支援を求めています。 私に関して言えば、衣、食、住、そして、「やる気」、これらは、いつも求めています。また、快眠、快食、快便でありたいと思ったりしていますね。これはあたりまえのことですが、神を求める者としてこれでよいのかと思う人もいらっしゃるでしょうが、聖書にはこれらを求めて生きる事を否定はしていません。むしろ大事なことだと言ってさえいるようです。 それが本日の新約聖書マタイ7章7‐12節に書かれている事から知りうることです。 聖書には、「求めよ」「探せ」「門をたたけ」とわたしたちに勧めています。そして、天の父が与える良いものであり、ルカ福音書の平行箇所では、私たちに求める物を聖霊であるといい、与えてくれるよい物も聖霊であると言うのです。本日の聖書のマタイ福音書では、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしてやりなさい。」「これこそ律法預言者である」ということでこの「求めなさい」というぺリコーべは終わっています。ルカと合わせて考えてみますと、「求めなさい」というのが、聖霊でもあるということです。また、「これこそ律法と預言者である」とありますが、それは「旧約聖書がわたしたちに伝えたいことです」ということ解釈されるようですし、聖書から、私たちに示されている実践して欲しい事、神様の業、神そのものということにもなりましょう!聖霊と神は同じものですから。 「弱い自分が人にしてもらいたいこと」って何でしょうか?これは人のいいなりになるということではありません。「自分が人にしてもらいたいと思うことを相手にする」ということです。しかも、その当の自分は「天の父が良い物をくださることになっている、聖霊を与えられている」自分なのです。さて、弱い私の例で考えますと衣、食、住、そして「やる気」に関して必要な人に提供するということですね。これは、実は、聖書を詠んでいきますと、天の父もくださっているものでしょうし、衣、食、住、やる気を他者に与えること、特にもっとも小さい者に与えることは、私たちが天の国に入るために必用な事でもあると語っている所があることがわかります。それは、マタイによる福音書25章34節―40節ですが、「『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造のときからお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えているときに食べさせ、のどが渇いてている時に飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気の時見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ』。すると正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お尋ねしたでしょうか』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたのである』とあります。ここを見ますと、まさしく、衣食住に困っていたりする人にそれらを提供し、快眠、快食、快便になるようにしてあげたり、病人や牢に入れられた人々を見舞う、これは生きる気をなくしている人に生きる気力、やる気を出させるような事でもあるのではないでししょうか?そういう人が天国へいける、神の言いつけを守った人、神に従った人、神を得た人、神・聖霊と共に生きた人(ここは言わない:そのことが、ある意味では、神であり、聖霊:ここは言わない)であると言っているのではなでしょうか。 こういうことから考えますと、「弱い自分のしてもらいたいこと」は、どういうことかといいますと、「生きる」支援をしなさいということでしょう。「求めよ」「探せ」「門を叩け」ということは、「生きることを」「求めよ」「探せ」「門を叩け」という意味だと思います。もう少し、詳しくいいますと、「よりよく生きることを」「求めよ」「探せ」「そのため門を叩け」と語っているのだと思います。「このよりよく生きること」ということは、どういうことかといいますと「神と共に生きる事こと」「聖霊を得て生きること」「神を得ること」「聖霊を得ること」でありまししょう。(ここは言わない:ある意味では、そのこと、よりよく生きる事自体が「神・聖霊」でもあるということでしょう。)わかりやすく言いますと、信仰する、信じることが、よりよくいきることになるのでしょう。マタイの福音書でいいますなら、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしてやりなさい。」ということ、これが、「よりよく生きる事の支援」「信仰の支援」ということです。 聖書は、あるいは、イエスは、わたし達がよりよい人生を歩んで欲しいと願っているということを示し語り、それが、神と共にいきること、信仰者として生きる事であり、生きることに困る人を助ける事と同様だと語ってくれています。そして、それは、避けがたい自然の災害にあったときでも、さまざまな内的人間の問題であったも、その他どのような滅び行くように思える、破壊の問題であっても、「求めて」「探して」「門を叩いて」いけば、必ずそこからの具体的救いが与えられる、よりよく生きる事ができるというに、本日の聖書の箇所からメッセージとして受ける事ができると思います。 私たちは弱さをもち、ややもすると、衣食住を失い、わたし自身「やる気」を失ってしまう人間でもあることをわたし自身、知るものです。しかし、こういうものでも、ここに用いられ、福音を語る事のできる恵みに与っているものです。恐らくこれは神の憐れみ、わたしの中に、ここにつどう皆様のように、聖霊が済んでいてくれるからでありましょう。願わくは、黄金率といわれる、愛、今日の聖書の箇所でいえば、アビメレクのように、自分にして欲しいと思うことを人にすること、苦難の中を生きている方々に「よりよく生きる事を支える」行いを行っていきたいものです。 イエスの十字架と復活によって、苦難の中にある私たちに与えられた、聖霊。これによって、罪人であり、弱く、やる気をなくすようなものでも、苦難の中で、主イエスを信じる信仰を与えてくださり、苦難の中で私の祈りを聴いてくださり、苦難の中で、よりよく生きるに必要ものを与え、苦難の中で、「よりよく生きる」ようにしてくださいます。ありがたいことです。更に、苦難の中で、この福音、良き知らせを他者に伝えるようにもしてくださっています。苦難にある他者に対し、特に今は自分を含め、東日本大震災によって苦難にある方がたへも「よりよく生きる事を支える」ように私自身の行いが、周囲の支援者と共に導かれていくことを信じるものです。 苦難から、苦難があるからこそ、主が共にいることを信じ、感謝し、この聖霊を求め、苦難にある者への具体的救いを祈り求めていきましょう。 自他共に、救われる道が必ずあるということを信じて。