創世記25章19節~24節 マタイ10章34節~39節 「平和の共同体の心得―神を一番に愛することを目指せー」 身内の仲 親子の仲、嫁姑の仲がよい人もいるでしょうし、悪い人もいます。時には家庭内暴力となってしまい、家庭の中が恐怖に襲われてしまうこともあります。そういうときには逃げてくることもあるようです。家庭の崩壊が叫ばれて長いですが、社会では危機を感じてか、スポーツ選手や有名人などは家族の紹介がなされ、家族の絆を強めようとする報道が多いように思われます。身近な人たちの平和を培う問題を今日の聖書の箇所から考えていきたと思います。この争いの原因はどこにあるか? 本日の創世記の箇所をみますと、イサクの双子の子供のことが次のように書かれています。 「二つの国民があなたの胎内に宿っており 二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。 一つの民が他の民より強くなり 兄が弟に仕えるようになる」 ここからみますと、身内の争いは神に責任があるというようにとれます。 聖書では理解できない人間が多数。 アダムとイブは神のおきてより、蛇の誘惑に従ってしまいました、カインはアベルを妬み殺してしいました。ロトの娘は近親相姦、そして、胎内から喧嘩をする双子兄弟、いままでみてきただけでも思いあたることが数々あります。今後も聖書の中には、わたし達の倫理観や道徳観からみて、えっ?そういうことしていいの?と思える人たちが多く出てきます。ヤコブの子ども12人のヨセフが兄たちにこれも憎まれてのことですが、殺されそうになりますし、出エジプト後、イスラエルの民族がカナンの地に入った後、主に背いてしまうことが士師記に記されています。イスラエルの王サウルと家臣ダビデの争い、サウルの娘ミカルのダビデとの政略結婚と冷え切った夫婦生活(ミカルは初めダビデを愛していたのですが、ダビデは好きではなかったようで、他の二人の妻アヒノアムとアビガエルを娶ってしまうなど)、側近たちの戦争による監禁、ダビデのバト・シェバを奪うために夫のウリアを戦死させたこと、ダビデは子どもたちのともうまくいかなかった、(ダビデの長男でマアカから生まれたアムノンが妹タマルを犯した。それに怒った次男のアブサロムは異母兄アムノンを殺し、やがて父ダビデに対し謀反を起こした。ダビデは一時都エルサレムを追われた。ダビデはなんとかアブサロムの反乱を収めたが、アブサロムはダビデの意に反して殺害され、ダビデは自らの子の死という神のあたえた罰に苦しむ)。預言者たちが主の戒めを守るように言うが、(たとえば南ユダの預言者前800年ころ)ゼカカルを殺しさえするイスラエルの民。 新約になっても、ヘロデの子供の殺戮、ヘロデアの娘の行為、預言者ヨハネの首を盆に乗せてくれと言ったヘロディアの娘とその行動は、異常としか思えない。律法学者やパリサイ派の堕落といいますか思い違い、たとえば、パウロのキリスト教徒の迫害、ステファノの殉教など、なぜ、こんなことがと思うことがたくさんあります。そして、私たち人々はイエスを十字架につけた。 そういう罪ある人間の暮らしはどうかといいますと、先ほども言いましたように、家庭の破壊、たとえば子育て放棄や虐待、弱者差別、変わり者などへの偏見、職場での人間関係、労働環境、地域の共同体形成の難しさなど、更に、経済格差による貧困の問題など、結婚の問題など、現実そういう問題に多かれ少なかれ、私たちは関り、時には避け、時にはぶつかり、重荷を負いながら暮しているのが正直な話ではないでしょうか? ニュースなど見ましても、身内のもめごとから、原発推進派、脱現発などの組織や団体のもめごと、イスラエルとパレスチナの問題など、アメリカへのテロとその根絶をめぐってのアフガニスタンへの攻撃、最近は、エジプトやチュニジアを始め。アフリカアラブ諸国の民主化と独裁体制側と退攻防。現代も延延と続いているようにみえる旧約時代の問題。身内の争いや不安や心配事から組織や団体、国家間の争いや不安や心配事まで絶え間ない出来事を経験したり、知らされています。 家族より神を愛せない人間 さて、こういう状況にあるとき、イエスの導きの一つに、家族より、イエスを愛せ、ということばがあります。これは、イエスの弟子としての覚悟の一つです。ある牧師はとてもこういうことはできない、家族ほど大事なものはない、自分はここで神を愛せないことをよくわかったと話されています。 わたしもここはとても理解できないのですが、イエスは決して、家族の破壊をもたらすために来たのではないと思います。聖書には「敵にはなる」といっていますが、破壊や破滅をもたらすといっているのではありません。聖書全体がテーマにしているのは敵同士の愛、共存、あるいは、和解であるということを考えますと、ここでは、たとえ、敵同士になったとしても、イエスキリストを一番愛していけば、身近な者がたとえ敵になったとしても、互いに愛し合いながら暮していける、争いを避ける事ができる、平和を実現できるということを教えてくれているように思います。 あるいは、人と人を敵にしたのはイエスだ。だから、その和解には神であるイエス自身が責任をもつから神であるイエスに任せなさい、ということを語っているように思われます。 以前、家庭内暴力にあった両親が、行政が手配する専門家に暴力息子を任せ、家から逃げてきましたが、そういう方法もあり、家族を何が何でも自分が守らければいけない、という、考え方、行動はいつも正しいかというとそうでもないように思うこともあります。この場合、イエスの今日のことば「平和ではなく、剣をもたらすために来た」ということばが、そのような人には救いになりうるし、生きる事を続けようと思えうるし、主の存在を信じ続け、希望を主に見出し、委ねていこうとしうる、と思います。 「家族の者が敵になる」このことばを理解できるのは、家庭内暴力などに苦しむ家族に大きな問題があろう方々だと思います。ここに慰めと希望を見出せるのはそのように家族や家庭で苦しんでいる方々でありましょう。 だからこそ、神を愛することを求める 人間の世界は平和に暮らすことの困難を覚えるものです。旧約聖書をみても新約聖書をみても、歴史をみても、現代の様子をみても、平和であることの困難、危機を覚えます。これは、人間の罪の故であることも聖書が示してくれています。ローマ信徒への手紙1章18節から32節にもありますが、罪とは神を信じない事です。」それは、「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」というようにも言われています。このような罪を行えば、世の人々の共同体は決して平和にはならい。神を一番に愛せない人の罪の故です。それを人間は自分の力で取り去ろうと努力もしてきたことかもしれません。しかし、それは、人の力ではできない、そう、示してくれているのも聖書であり、現実の世界です。 しかし、イエス・キリストの十字架が、人に変わって、罪を赦してくださった、取り去ってくださった。そして、互いに愛し合いなさい、と、罪人で、平和を築けず、愛せない私たちに、語ってくださっています。その先に、平和な世界で愛し合う家族の姿が幻としてわたしには見えています。聖書から。平和な世界が導かれるように思います。 主イエスを一番に愛するようになれば、われわれは、あらゆる不義を行わない、悪にならず、むさぼらず、悪意は全くなく、ねたまず、殺意はなく、不和なく、欺くことなく、邪念は皆無、陰口は言わず、人をそしらず、神を憎まず、人を侮らず、高慢でなく、大言を吐かず、悪事をたくらま、親に逆らわず、無知ではなく、不誠実でもなく、無情でもなく、無慈悲でもない。このようになるでしょう。そして、そのとき、神の平和が訪れる。神が創造された平和のあることに気づかされるのでしょう。 神イエスキリストを一番愛することを目標としてこれからも暮していきましょう