創世記25章1節~18節、ローマ3章21節~31節 211 378 532 (やすかれ、わがこころよ) 平和の共同体の心得―誰でも信仰によって義とされてー 原発事故の加害者・被害者 今年3月、東日本大震災があり、わたしの施設にも家を流された人が7人いました。それで支援物資などを渡していたのですが、埼玉の人から「狭山茶」を頂きました。新茶を20袋程度。知り合いの被災者に配りました。「美味しい、ありがとう」と言う声をお聞きして、「おお、私のやったことは、世のため、人のためになった」と思っていました。 しかし、最近、ニュースで、ある地域の狭山茶から、1キロあたりおよそ2000ベクレルのセシウムが検出され、狭山茶の日本で最大級のお茶屋さんが風評被害も含めて倒産したということを知りました。通常の食品はキロ当たり500ベクレル以下が食べてよいという値らしいですが、4倍以上も多い数値だったのです。なんと、わたしの配った狭山茶に放射能のセシウムが入っていたかもしれないのです。小学生の女の子のあるお母様にも渡したのですが、「大丈夫でしょうかね」とか聞かれました。その時は、本当にぞーっとしました。「すみませんでした。どうなるか判りませんからね、今後。一応飲んだ事は覚えておいたほうがいいですよね。あとで、癌とか何か病気になったときに、原因と特定されることにもなりかねませんからね。損害賠償とかにもなるかもしれませんから」などと話しました。 自分は、本当にやってはならない余計な事をした、原発事故の放射能災害の加害者でもあり、被害者でもあると思いました。これから辛い人生の始まりです。私のような小さな問題であってもこうです。まして、被爆者被災者、関係する人々はどこまで辛い人生が続くのか想像を絶します。 長寿を全うして満ち足りて死ぬ アブラハムは175歳で長寿を全うされました。「満ち足りた」とさえあります。満ち足りて死ねるとは羨ましいことです。 アブラハムが聖書に始めて出てきたときは75歳、子のない65歳のサラと老夫婦でした。当時子供がないといえば、世の役に立たない夫婦として、神の呪いにでもあったような思いであった夫婦だったのでしょう。そのアブラハムが神から選ばれ、約束を受けます。カナンの地が与えられ、子孫を大地の砂粒のようにする、大いなる国民とする、多くの国民の父とする、祝福するという約束を、神の言葉を直接聴いて、啓示として、受けました。それから老人アブラハム一族の大移動、旅が始まりました。その旅は安全なものではなく、ソドムとゴモラの滅亡を目の前にしたり、飢饉にあったり、エジプトで死の恐怖にさらされ、命がけで過ごしたり、艱難や行き詰まりの多い旅でした。さらに、子孫を大地の砂粒のようにする、天の星のようにすると神様から啓示を受けて10年以上経っても、約束された子どもができませんでした。アブラハム、サラは、子どもができないことを心配し、エジプトの女奴隷ハガルを妾として迎え、サラといざこざに巻き込まれながらもイシュマエルを授かりました。そして、やっと、アブラハム100歳サラ90歳のときに長男イサクが生れました。しかし、サラはイサクをからかうイシュマエルを怖れ嫌い、ハガルとイシュマエルはアブラハム家から離れることになりました。イサクも大きくなり、サラが127歳で亡くなったあと、40歳の時に嫁リベカを神から授かりました。このころアブラハム140歳、それから35年、どのようにくらしていたかは分かりませんが、今日の聖書の箇所では、アブラハムは妻ケトラを娶って子どもを授かったようです。息子イサクが結婚したところに、アブラハムは、妻を向かえ、また子どもができます。ジムラン、ヨクシャン、メダン、メディアン、イシュバク、シュアを生んだ、とあります。そして、アブラハムはイサクに全財産を譲り、側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方に移住させ、息子イサクから遠ざけたとあります。140歳で再婚、6人子どもが与えられ、正妻の長男イサクとの間にいざこざに巻き込まれた人生だったと思います。 子のない夫婦に与えられた祝福、子どもが多く与えられるという祝福なのでしょうが、冷静に考えてみた時、果たして、アブラハムは幸せだっただろうか?サラは幸せだっただろうか?子供たちはどうだったのだろう?と思うと、アブラハムは、とても大変な試練や重荷を負った方であったとも思われます。 しかし、そのアブラハムは、死ぬ時には、満ち足りていたと聖書には記されています。一見、苦難と艱難、解決出来ない問題に満ちた人生でしたが、「満ち足りていた」と聖書は語っています。これはどうしてでしょうか? 満ち足りた生き方とは自己実現? わたしたちの人生が満たされることは、何によるのでしょうか。 自己実現、自分のなりたいようになる、自分の生きたいように生きることがよく現代の価値あるものとされているように思います。 そういうことでしたら、実は私、マザーテレサみたいにノーベル平和賞をとりたいと思ったりしたこともありました。今年のノーベル賞受賞はリベリアの大統領のエレン・サーリーフさん(72歳)、リベリアの平和活動家リーマボウイーさん(39歳)、イエメンの人権活動家タワックル・カルマンさん(32歳)になりました。「女性の安全のため、平和機構に女性が参加する権利を得るために非暴力で闘った」ことを評価されたようです。まあ、私を推薦してくれるような人もいませんし、ノーベル平和賞に与る人ってノーベル平和賞をもらいたいなどとは思わないでしょうから、もうこの点で私は落選です。 この私の名誉欲を満たす事のような自己実現の欲求を満たす事が、自分の人生に、満足、満ち足りたと評価を与える事ができるのか?とも疑問を呈するところです。この自己実現の欲求というのは変身願望、自分以外の自分、自分の理想像、聖書的に言えば偶像のことではないかとも思います。理想の自分は偶像ではないのでしょうか。この偶像を求めている限り、満たされない、満ち足りないのではないのでしょうか。 啓示によって生きる 自己実現ではなく、別の生き方で満ち足りた生き方とはどういうことでしょうか。ここで、パウロのことを思い出したいと思います。コリント信徒への手紙二12章で、「自分の弱さを誇る」とパウロは言い出しました。10節では、「それゆえ、わたしは、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして、行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています」といいます。更に「なぜなら、わたしは弱い時にこそ、強いからです」とも言い切ります。弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして、行き詰まりの状態、これは自己実現がはばまれる状態です。どうして、パウロがそのようなとき「満足しています」と言い切れたかといいますと、神キリストから啓示を受ける出来事があったからだと思われます。パウロは何か自分の病気があって、これを何とかして治してほしいと思い、神に3回祈ったそうです。そうしたら、主はこう言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。パウロにはそうした神からの啓示という神体験がありました。啓示があったために、弱くとも強くなれるという信仰を抱き、弱さがあっても満足した、と言い切れたのでしょう。パウロは今の弱いパウロのままで十分神様から恵みを受けていたのだということに気づいたのだと思います。 信仰によって義とされる 本日の聖書、ローマ信徒への手紙3章21節から31節からみますと、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされるといわれています。義とされるというのは、「正しい。間違っていない。それで悪いことはない。」ということです。そのままの状態のままでよろしい、罪を償う事はないということです。これが実は我々に与えられている啓示、神から一方的に与えられた啓示です。アブラハムにはことばとして、「子どもを与える。子孫を増やす」という、不妊のアブラハム夫婦に啓示がありました。私たちには、信仰による義、いいかえれば、「信じれば救われる」という啓示が与えられているのです。「イエス・キリストは自分の罪を赦してくださるために十字架についてくださった」、こう、信じることで、正しいものとされる、神様からよしといわれるというのです。これ以上変わる必要もないのです。何も立派な身体や心でなくてもいいのです。頭が悪くてもいいのです。行いが悪くても、罪を犯しても、神は私の罪を十字架で赦した、というのです。 祝福の気づき さて、信仰によって私たちは義とされることによって、神の用意している祝福(弱いとこに働く主の恵み)に気づくこともできます。実際信じて暮していく時、私たちは神の業に囲まれている事に気づかされたり、体験して感動したり、神体験をたくさん意識できるようなってくるように思います。不思議にそういう場に導かれたりします。例えば、被災者の借家のリホームに必要なお金が地震保険で与えられたり、精神疾患の叔母が震災中でも入院しなかったり、気仙沼集会も細々と続いたり、柴宿教会の礼拝にも加えて頂いたり、個人的にはたくさんの奇跡と思われる体験をさせられています。こんな罪深い私にも神様はなんてよくしてくださることでしょうと思ってしまいます。 主の御旨を求め従う そうすると、どうなっていくかといいますと、私の体験で申し訳ないのですが、主がいけないということはしないようになるし、主が勧めることをするようになっていくと思います。少なくとも意志はそのようになりますね。敵対するのはまずい、お互い、愛し合うようにしよう、弱い人を助けよう、助けを求める人に手を貸そう、支え合おう、或はもっと御心を知ろう、聖書を読もう、礼拝をしよう、そして、また、神からのメッセージを悟り、それに従おう、というような行動に変わってくるのだと思います。これはアブラハムと同じ、信仰の結果ですね。アブラハムとは生活の場所など環境が違いますから、個人的にその行動内容は異なるのでしょうけども、主の御旨を知ろうとし、従おうとするようになるでしょう。 祝福を約束される神 神はもう祝福を約束されています。わたし達が主の罪の赦しを、主の導きを信じさえすれば、満ち足りる、という祝福を約束されています。それが本日の聖書のメッセージです。そして、今日の聖書の箇所では、イサクとイシュマエルの子孫の系図が書かれています。イサクの系図は次のところにありますが、ある牧師の話では、聖書に名があるということは、特に系図にあるものは、最後には、神様の祝福を受けるようもう決まっているから名前が聖書にあるいうように語っています。今日の創世記25章18節にはイシュマエルの子孫はエジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル地方に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していたとあります。互いに敵対した生活というのはよろしくないです。愛し合う生活がよいです。しかし、よく考えてみますと、ここに敵対しつつ生活するというのは、今の我々の暮らしと同様ではないでしょうか。原発の問題でも東電と政府と被害者の対立、原発推進はと脱原発派の対立、独裁政権に対する民衆の反発、資本主義民主主義が生み出す、経済格差からの低所得者と一部資本家との対立、その敵対する暮らしにあっても、神は「満ち足りる」ように我々を導き、祝福してくれるということなのではないでしょうか。 平和へ向かう意志 わたしたちは、欠点、弱さ、罪、自然災害を含む解決のできない自分と他者に関わる問題、それらを主イエスにお任せするとき、主が何とかしてくださり、神からの祝福に入り、満ち足りるようなる、ことを信じていきたいと思います。そうすることによって、自己実現の欲求を満たされなくとも、更に今日のような震災後の問題の解決への道が分からない現実があっても、苛立たず、心安らかに平安に暮らしていけるのではないでしょうか。そして、たとえ争いの中に巻き込まれていたとしても、そこに、和解や平和を築こうとしていくこと、その意志が与えられるのではないでしょうか。 信仰によって義とされる出来事、これは、欠点のあるもの、弱いものであること、死に値する罪びとであることを自覚するだれもが与えられる主イエスからの霊的恵み、聖霊による恵みであり、わたしたちを満ち足りたようにすることでもあり、主の祝福に気づいていけるようにしてくれる出来事なのでしょう。そして、信仰によって義とされたことに気づくことは、この殺伐とした闇の争いの世に平和を作ろうとする意志を生み出すことでもありましょう。 (2011年9月4日主日礼拝説教より加筆訂正しました) 柴宿教会協力牧師 小野寺清栄(鳴子教会気仙沼集会)