創世記24章1~9節、ローマ11章33節から36節    
説教「平和の共同体の心得―すべては神による」 37   346   533

日々の暮らし、うまくいくこともあれば、失敗することもある。
うまくいけば、神のおかげ、失敗するのは自分の至らなさと思うのが普通かもしれません。
なんで自分だけこんな労苦を与えられてしまうんだろうと嘆き悲しむ人々は多いと思います。また、東北関東大震災、多くの犠牲者と破壊をもたらした震災、どうして、東日本の海岸線にだけ災害が与えられるのでしょう。これらはどう考えたらよいのでしょうか? 神の業なのでしょうか? 今日はそのようなことも含め聖書から考えていきたいと思います。

創世記、これは、聖書に一番初めに書かれている書ですが、その中に出てくる、老人アブラハム、このアブラハムが、創世記12章から24章までの主人公になっています。今日の聖書の箇所でも、主人公となっています。
老人の物語が創世記であるといってもいいのかもしれません。
年寄りになると隠退だ、と一般的に言われていますが、敬老の日みたいに、ちょっと特別扱いされてしまうようですが、創世記はそういうことにはお構いなしで、老人パワーを開花させます。
人類の先祖が若い人たちから出た子供たちではなく、マカ、不思議、100歳のアブラハムじいさんと90歳のサラによって生まれてくる子どもイサクによったのでした。

イサクの嫁探しが今日のテーマです。一族(22章20節から24節に説明があり ナホル一族)から、妻をもらうことになります。

アブラハムと僕 アブラハムの最後の言葉
イサクへの嫁探しですが、アブラハムは全財産を任せている年寄りの僕にその任を任せます。カナンの地ではなく、そこから500キロは、離れている故郷のアラム・ナハライム(ユーフラテス川とチグリス川の間にある地域)のアブラハムの弟ナホルの住む町で探すということ、こちらに連れてくること、あちらに婿に欲しいという場合は断るということ(天の神の啓示が「この土地カナンをアブラハムの子孫に与える」ということから)、神が御使いを遣わしてそこから嫁を連れてくるようにしてくれる、とのことで、僕に委ねます。アブラハムの言葉は聖書ではここで終わります。主の祝福と啓示を最後まで信じて、異教の地において、暮したアブラハムの姿をみることができます。

井戸の傍らでのリベカと僕 ベガ=半シュケル=5,7g
さて、その老僕は、嫁探しを始めますが、だれが相応しいか選ぶのは大変でしょう。この老僕は泉の傍らにきて神に祈ります。『主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、私を顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。私は今、ご覧のように、泉の傍らに立っています。この町の娘たちが水を汲みに来た時、その一人に『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください」と頼んでみます。その娘がどうぞお飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそあなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとしてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたことをしるでしょう』と祈ったとあります。この祈りは、神様には失礼なこちら側が勝手に神を利用するような、神に対してなんとも不遜な祈りのように思われますが、嫁探しがむしろ大変だったのかもしれません。イサクは40歳、浮いた話の一つや二つあったかなかったか、まだ、独身。しかも、近くにいる嫁ではなく、遠く離れたところから嫁を探すことをしています。これは難題だったと思います。今現代でも結婚は至難の業です。それだけにこの老僕は、自分の言うとおりにしてくれ、というように祈ったのかもしれません。何はともあれ、主はその祈りをすぐ聞かれます。しかも、その人が、アブラハムの兄弟ナホルの孫のリベカでした。

リべカの家での交渉
リベカの家へ行き、祖父ナホル祖母のミルカ、父ベトエル、兄ラバンとあって、これまでのいきさつを話し、それが、主のご意志であることを認め、イサクの嫁になることを納得するのでした。老いた僕はすぐにカナンにいる主人アブラハムの元に帰るといいます。母や兄はあと10日ほど娘を家に置かせて欲しいと願いますが、娘のリベカは即刻嫁ぐことを決意します。そして、カンナでのイサクとリベカは夫婦となりました。

ある牧師は、この物語を読むときに起こる期待される反応は、「その中で信仰が生きる、楽天的な平静さに気づくことである。たしかに慈しみを持って緑の牧場に導いてくださる真の羊飼いである主を信頼するような思いが養われますが、それだけでなく、信仰者は冒険をすることができる、不可能に向かって挑戦することができる勇気を与えられることをも学びます。主は信頼する者をけっして虚しく去らせることはないからです。」と言っています。

今日の聖書に登場した人々はすべて、主に信頼を置く、人々ではなかったのではないでしょうか。そういう、信仰が生きるという状態、信仰している時に、主のみ旨である、難題、本日の場合はイサクの結婚ですが、その主の御心である難題が解決されていくことを、本日の聖書から、教えてもらっているように思います。ですから、結婚を艱難と思っている私は、人間的な思いでは、イサクはよかったなあ、結婚相手を見つけてもらってと思いますが、しかし、本日の聖書の箇所を読んでいくに従い、そういうことではなくて、きっと、私の思いを越える恵みがすでに本当は与えられているのかもしれないと思うようになりました。艱難は既に神よって克服されているのだと思います。

さて、今の私たちへの、主の御心とはいったいなんでしょうか。地震、津波による東北・関東大震災を含む数々の艱難を体験しているわたし達、これら艱難をも御心というのでしょうか。

今日の聖書のもうひとつの箇所。ローマ信徒の手紙11章33節から38節ですが、イスラエル人ではなく、異邦人に救いの信仰、主イエスの救い主と認める信仰が及ぶことについて、神があえてイスラエル人を不従順にし、そのため不従順だった異邦人が神の憐れみを受けるようになったし、また、異邦人が憐れみを受けることによって、イスラエルの民は不従順となり、それが、イスラエルの民を憐れむためであるということをパウロは語り、さらに、神はすべての人を不従順にされましたが、それは、すべての人を神が憐れむためであったと語っています。そして、神の富と智恵と知識のなんと深いことか、と語り、神の御旨は知り得ないと語り、すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。と結論付けています。

死はイエスの十字架によって復活に変えられ、死すべき罪びとである人に、永遠の命が与えられる希望が、与えられました。それは、人が善人だからではなく、むしろ、人間が死を迎えざるを得ない罪人でしかないところだからこそ、与えられました。不幸があるからこそ、幸いが与えるのが、主イエス、神、聖霊の業です。

ですから、現在わたし達が経験している、未曾有の出来事といわれている災害などによる破壊ではありますが、これも、神のわざとして捉え、そこから、復興がなされ、平安な平和な暮らしが新たに創造されると希望をもつこともできます。

わたし達が暮している中で、体験するすべてが神によると思えることが、信仰の到達点かもしれません。なんで自分だけうまくいかないんだ、と思うときに、そこにも主の業が働いている、そして、それを用いて、神が思いも寄らない恵みさえもああ得てくれるという、信仰をもちたいものです。聖書からはそのような信仰を紹介され勧められているようにも思います。

祈ります。