創世記 23章 1節~20節 マタイ6:25-34 必要が満たされる サラの生涯は百二十七年であった。これがサラの生きた年数である。サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」ヘトの人々はアブラハムに答えた。「どうか、御主人、お聞きください。あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、わたしどもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。わたしどもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません。」・・・・ こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含め、町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった。その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。その畑とそこの洞穴は、こうして、ヘトの人々からアブラハムが買い取り、墓地として所有することになった。 マタイ6:25-34 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことは思い悩むな。明日のことは明日自ら思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」 コリント一15:50-58 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。 「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。 東日本大震災で被災した日本ですが、今だ1ドル77円の円高が続いていまして、日本の経済を信用しているのか、欧米の経済を信頼しないのか、世界中が、多くの人々が失業し、経済活動が低迷になるんじゃないかと不安に思うこの頃です。 現代人の特徴は何か、という問いに、エーリッヒフロムは、持つ様式と、ある様式の生活スタイルを上げ、現代人は持つ様式にあまりにも傾きすぎていると語っています。この持つ様式の暮らしとは、財産とか、人を支配する力とか、名誉とか、健康とかいうものです。 一方ある様式というのは、信じる事とか、悲しむこと、喜ぶ事、集中する事、とか、愛する事とか、目に見えない個人レベルの心や精神という目に見えないその人でなければ分からない世界です。減殺社会は、個人に生じる真の満足を、取り違えて、持つ様式を多く得られさえすれば、価値ありとしまったところが、誤りではないかと提案しました。 物か心かという捉え方もあるでしょう。 東日本大震災では多くの物質が破壊され、失われました。復旧、復興には、この失われたでいいのです。しかし、主の恵みとは、そういうことなのか、と思うのです。そこに、主を忘れて、復旧、復興にいそしまなければならないという、誘惑を、私たちは受けているのではないでしょうか。 主の十字架を思うとき、我々は既に救われあがなわれているのではないでしょうか。 そこから、まず、考えて、復旧、復興を考えていかないといけないのではないでしょうか。 それを抜きにして復旧、復興は誤った方向にいくと思います。主の御心にかなった復旧・復興こそ、必要な事、今、救われた世に赦されている復旧、復興であると思います。 世の中にはこの震災をビジネスのチャンスと捉えて一儲けしようとする人も多くいます。それはそれはうまくいくことでしょう。気仙沼でも土地が3倍近く値上がりしました。すむところもなく住宅を借りたい人で一杯です。それを利用して儲けようとする。こういうことがきているのです。これはイエスの御心でしょうか? イエスの御心は生きるに必要な糧を与える事であり、儲ける事ではないでしょう。 寄留者とその土地の方々との共存 アブラハムとサラの家族は、寄留者でありつつ、その土地土地の人にお世話になっていました。お世話といいますか、その土地の習慣に習っていたようです。冠婚葬祭はその地域の信仰や宗教、文化や慣習が表れるものです。自分とこの人とも関わりがあるというような共同体意識が葬式など冠婚葬祭に参加することで、示されると思います。冠婚葬祭に集まった人々との共同体意識が生まれるようにも思います。それでなんとなく安心したりもするものです。サラが127歳で泣くなり、アブラハムは胸を打ち、嘆き悲しみました。アブラハムはエフロンと墓地についての交渉をみんなの前で行い、その土地の人々が認める形で墓地を買い取りました。銀400シュケル(金約160g)で買ったようです。アブラハムはこうして地域に溶け込んでいたようです。 まず、神の国と神の義を求める しかし、アブラハムは自分のことを、この地に一時滞在する寄留者であると話されていました。アブラハムはこの土地のヘト人と交わりながら、しかし、神から自分が啓示された者であるということを決して忘れていませんでした。この土地の人々と交わることは主のみ旨を果たすためであったと読み取ることができます。新約聖書にまず神の国と神の義を求めよ、そうすれば、必要なものは与えられるということが、書かれてます。という箇所がありますが、明日のことは思い悩むな。とまで聖書はいってくださっています。今、我々は史上最大級の地震と津波の災害にあっており、復旧、復興と歩んでいますが、まず、神の義と神の国を求めていくときに、心に喜びを感じ、あるいは、悪い事をしたときには、悔い改めながら、生きていけることが分かるのではないでしょうか。 宗教は死と関わる 死。これほど、われわれを脅かすことはありません。死を避けるように生きています。ですから、人間は基本的には死にたくないのです。宗教はこの死の問題を捉え、解決の道を与えてくれていました。 近所の方の死 最近も東北関東大震災によって多くの方々の命が失われ、また、我々もその死に関わり、その危機にさらされているものです。 死から復活 しかし、聖書には死から復活の希望を、しかも、朽ちないものへの復活の希望を語ってくれています。わたしたちは死では終わらない。これは、イエスの十字架の贖いのおかげであると聖書は語っています。ですから,主のみ言葉に聞こうとするのです。そして、このような地獄とも思えるようなこの世で、神の国と神の義をまず第一に求めなさい、という言葉を聞くものです。 どんな暮らしも無駄にはならないー神の国と神の義をまず求める暮らしは 創世記の物語を読むと洪水とか日照りとか飢饉とかソドムとゴモラの滅亡など人類が破滅に近づく出来事を見ることができます。現在生じている東北関東大震災よりも大きな災害が聖書にしめされており、それを人類が乗り越えてきたことを知ることができます。どうやってそれを乗り越えてきたか?それを乗り越えたのは人間ではなく、神の業であったのだということを聖書は語っています。わたしたちは自分の力はとても弱いもので人を救う力もありません。私は罪人の頭でしかありません。この災難にあって、私は何を成し得ましょうか? イエスは語ります。 まず、神の国と神の義を求めてなさいと、聖書はそう語っています。アブラハムは、神の国と神の義を求めて行った結果、その具体例として、自分の生まれ故郷を離れる旅人にされ、多くの危機にあわせられながらも、導かれ、守られ、多くの子孫を与えられました。これがアブラハムに与えられました。それは、神の業であると聖書が示していると思います。 さて、わたしとは言えば、何をすればよいのでしょう。この地震、津波にあっては、災害復旧、復興が一致した世の目的であり、現状です。そういう状況にあって、まず、神の国と神の義を求めるとは、どういうことなのでしょうか。 それにこういうときに、私はガラテア信徒の手紙5章22節を思い出します。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、これらの方に向いているかを考えるようにしています。このような状態が神の国と神の義を第一に求めることであると思います。災害復旧、復興に当たっている状況でも、どんな暮らしをしようとも、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制へと向かう生活をしていくとき、決して、必要なものは失われることはない。必ずこの世で必要な救いが与えられていく、本日の聖書の箇所から捉えられたメッセージです。 どんな暮らしをしようとも、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制へと向かう生活をしていく時、決して、必要なものは失われることはない、必ずこの世で必要な救いが与えられていくことが、私たちの神の、主イエスの、聖霊の業です。祈ります。