創世記22:1~19、ローマ12:1~8 (鳴子教会2011年7月10日)
平和の共同体の心得―聖なる生ける生け贄として捧げる―

人身犠牲
自分の身体を聖なる供え物として捧げる。このことは何か生け贄として捧げることで不気味に思います。人身犠牲というそうで、これは古代カナン地方にあった風習で、旧約聖書レビ記18章21節には、「自分の子を一人たりとも火を通らせモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。わたしが主である。といわれているように、信じられないことを人はやっていたようです。旧約聖書では人身犠牲はなく、刑罰の贖い以外は無く、動物、植物などの捧げ物になっています(民数記28章29章)。
カナン地方以外にも、人身供養のようなことは、アステカ王国やインカ帝国など古代世界ではあちこちにあったようです。自然災害に対するする宥めの生け贄という意味のものが多いようです。日本にも卑弥呼がなくなったとき、百人近くの人が共に死んだということです。権力者をおしたいしたり宥めたりするためでしょうけど、その後時代では、埴輪になったそうです。川の洪水をなくすために、橋や堤などを作るとき、「人柱」というのもあったそうです。これも生き埋めにされるわけです。19世紀になってもインドのドングリア・コンド族には豊穣を祈って人が生け贄とされていた祭壇があったらしく、イギリスの役人が禁止する運動をして、代わって3~4年に一度水牛(山羊)の供養を行う場となった、ということです。
生け贄、というと何か不気味ですが、犠牲ということについていえば、日常的に私たちにも関わる問題です。地震など自然災害で被る犠牲。東日本大震災では2万5千人近くの人が死亡か行方不明となっています。家庭でも、組織でも、社会でも、自分のいやな仕事を誰かが引き受けなければならない犠牲。競争社会で取り残される犠牲。殺傷事件など、セクハラ、パワハラなど犯罪被害者としての犠牲。戦争などの犠牲、犯罪に対する刑を受けることもで含めると、この犠牲、特に、なぜ、その人達が受けなければならないか分からないような犠牲が日常あり溢れる中で暮しているようにも思います。
また、イエスキリストの十字架の救いを信じる信仰者としての私の生は、まさに、神と人とを犠牲にして、神と人とを私の生け贄として、いや、生け贄なんて上品なものではありません、ただ、はき捨てることしかしない私であるが、神の哀れみによってのみ、生かされている、最大罪人であるということに、この私はなります。嫌だ、関わりたくないと思う、不気味に思う生け贄ですが、実は、自分が生きるために、生け贄を作っているのが、このわたしである、と信仰的には認めざるを得ません。

アブラハムは主がイサクを生かす、ということを知ってた。
本日の箇所は、神がアブラハムを試された。というようにあります。最愛の子、イサクを「焼き尽くす捧げものとして捧げなさい」という神からの命令、神はアブラハムをためしました。ここは、生身の普通の人間では、聖書はこのまま読めないと思います。最大級の罪人であるわる私でも、ちょっと自分がイサクだったら嫌ですね。また、家族であっても待ってくれっていう感じです。こんな残酷なことを神様は要求するのか、私は絶対にない、と思います。アブラハムも、イサクは絶対殺されはしまいと思っていたはずです。そうでなければ、モリヤの山には行けないし、2人の若者に、「前たちはろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って礼拝をして、また、戻って来る」とは言えません。また、イサクが薪を背負わされ、火をもつアブラハムと一緒にモリヤの山に登っているとき、イサクが「私のお父さん、火と薪はここにありますが、焼き尽くす捧げ物にする子羊はどこにどこにいるのですか」とたずねたとき、アブラハムは「わたしの子よ、焼き尽くすささげ物の小羊はきっと神が備えてくださる」とは言えなかったでしょう。アブラハムの信仰というのは、イサクは生き、祝福を受けていく民の先祖になる、という信仰に他ならなかった。神は、絶対にイサクを守り、祝福するという、生きることへの信仰であったと思います。試練があったとしても、必ず、神はそれを乗り越える道を与えてくれる、という信仰だったのだと思います。アブラハムはここで試練に合われたと思います。そして、じっさいは、アブラハムが祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上にのせ、刃物を取り、息子を屠ろうとした、まさに、そのとき、天からのみ使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけ、「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが、神を怖れぬものであることが今、わかったからだ。あなたは、自分のひとり子である息子すら、わたしに捧げることを惜しまなかった。」という御使いの声を聴きました。アブラハムは目を凝らして見渡すと、捧げ物として雄羊が、角を取られ、屠られる準備がなされていました。雄羊を焼き尽くす捧げ物として捧げたわけです。

アブラハムの試練
アブラハムは考えてみますと、試練の連続でした。75歳まで子どもが与えられず、神様からアブラハムの子孫が与えられるといわれても、100歳まで25年も待たなければけなかった。その間、エジプトへ渡たり、異教徒のファラオとのやり取り、殺されないように妻サライを妹と偽り、過ごしたり、見つかってしまいましたが、神の働きによって、助かり、財産を得た、なんていうこともありました。カナン地方で、牧畜などで甥ロトといざこざがあり、別れ別れに暮らすことになった。さらに、ソドムとゴモらの滅亡からロト家族を救い出したりする危険な目にも合っているようですし、妾ハガルからイシュマエルを与えら得ますが、本妻サラとハガルの関係が悪くなったり、しました。そうしているうちにイサクが生まれ、イサクとイシュマエルの仲を心配したサラによって、イシュマエルとハガルを手放さなくてはならなっくなったり、まあ、いうなれば、試練の連続でした。そういう試練を神のお蔭で、乗り越えてこられた、今回も大丈夫だろうという、信仰があったのだと思います。「主は備えてください」とアブラハムは今日の舞台となった場所を名づけたといいます。今日でも「主の山に備えあり」と言っていると聖書に書かれています。いう私たちの信仰は、過去の信仰、神の言いつけに従ったときでた結果によって、強められていくものでしょう。アブラハムにはそういう啓示が数多かった。アブラムからアブラハム、サライからサラと名前が変えられることすら生じたのです。
イサクのこの信頼は、これまでの神体験が物を言わせているのだと思います。
「神は恵みを下さる。だが、試練も与える。しかし、最終的には恵みになる、祝福になる」とアブラハムは信じたのだと思います。

礼拝は犠牲を捧げること。
ここで、礼拝について考えてみたいと思います。アブラハムとイサクは何をしに、モリヤの山に登ったのか。それは、「礼拝」をするためです。礼拝とは、神から要求された犠牲を捧げることとここでも捉えることができます。私たちの礼拝も、大切な日曜を、礼拝として捧げているわけです。献金もし、教会運営や管理など奉仕をします。それを捧げて礼拝をしています。そして、ロマ書12章1~3節には、「こういうわけで兄弟達。神の憐れみにってあなたがたに勧めます。自分の身体を神に喜ばれる聖なる「生ける生け贄」として捧げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。」と言っています。

聖なる「生ける生け贄」とは
ロマ書12章4節~8節には、「神に喜ばれる聖なる生け贄として捧げることについて説明があります。わたしたちに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形作っており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けてれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」
とあります。これは、それぞれに与えられた賜物を用いて、それぞれ、神様がよしとされることを、-愛すること、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテア5:22)―これに繋がるような活動こと、これが聖なる「生ける生け贄」と考えてよいと思います。

生け贄―神が我々全人類のために、屠られた。
しかし、何度も言いますが、生け贄なんていやな言葉を使いますね。神に殺されるみたいな感じがします。生け贄という言葉は、生けというのは「生け花」やの「生け」で生きたままのという意味です。生け贄の「贄」は神仏・朝廷へ捧げる供物。特に初物の食べ物や諸国の特産物。をいうようです。「生け贄」はいきたままの神への食べ物。捧げ物ということになります。

神道では、神様の食べ物を我々は捧げますね。毎朝、うちでは神棚にご飯とかみそ汁を捧げます。昼、夜はないんです。これは、神様にご飯や魚を食べてもらうためですね。あと、神道では捧げ物とかよくありますね。お賽銭をあげるとかですね。100円200円、多い人で10000円とかですね。こんなお金で願いが叶うとすればこれは安いものですね。わたしたちも献金なども捧げますが、これで、自分の暮らしがうまく行くなら、お安いものですね。

しかし、私たちの神様は、私たちの生け贄になりました。逆です。聖餐式はそのことを示す、礼典です。イエスキリストの肉と血、これをわたし達がいただくのです。贖罪の生け贄となったイエスキリスト。神、わたしたちの神は、わたしたち人間に、食べ物として、供え物として、自分の身体を捧げました。わたしたちの罪が赦されるようにとの、神と人とからみ捨てられるという、十字架付くという、生け贄となりました。なんということでしょう。この最大級の罪人であるわたしのためにもそうされたのです。

わたしたちの聖なる生ける生け贄とは何か?身体の犠牲ではない。他者への愛。
もう一度話しますが、わたしたちが神に捧げるべき、聖なる生ける生け贄とは何でしょうか。これは、もちろん、人の命を捧げる自己犠牲ではありません。イエスがそれをしてくれましたから。
愛すること、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテア5:22)―これに繋がるような活動こそ、これが、聖なる生ける生け贄ということになるでしょう。
上記のような事柄を背景に、信仰に入るとき、あるいは、信仰的にすすむ時は、何か、死んでもいいという思いになりませんか?全身全霊をかけるという意味では信仰とは、ある意味、神の生け贄となってもよしという決断でもあるように思います。そうすることによって本当の意味で生きるのでしょうが、これが、生の神秘、とでもいうのでしょうか?
私は、今は、東日本大震災の渦中におりますが、取りあえずは、礼拝をすること、神の言葉を聴くこと、牧師の仕事をすること、家族や教会、集会、関係する共同体と共に支え合って暮らすこと、言語聴覚士の仕事をすることに、震災の復旧・復興に、生ける生け贄として捧げようと思っています。こういうふうに生ける生け贄として、生活できるということは、最大級の罪人である私に対しての、主から私への最大級の憐れみの現れ、恵み以外の何者でもないことと思っています。

さて、みなさんは、どんな、聖なる生ける生け贄となりますか。