創世記21章1~8節、マタイ1章12節から25節 
平和の共同体の心得―約束を守る主―


人はよく、ご縁がありまして、この職場にいますとか、ご一緒できますこと、これも何かのご縁で、とか、縁結びの神様、という言葉がありますね。このご縁、しかし、一方では、無縁社会ということばがNHKから出て来まして、孤独死など人と無縁になってしまった寂しい方々もいるようですし、旅先での身元不明人志望者が3万2000人もいるそうです。神様とのご縁があって、それを大切にしていくことで、初めて生きることができるというように考えてもいいように思います。人はパンのみで生きるにあらず、神から出る言葉とのご縁によっていきるというと分かりやすいのではないのでしょうか。神との縁結びをするところが、教会でもあるのでしょう。

この神様、約束を必ず守ることは信頼関係を築くことの条件になっています。
神様は約束されたことを必ず守る方です。それだけに、神様のご縁は良縁であるとも、いえると 思います。これ以上の良縁はないと思っています。神とご縁を結ぶことがわたしたちの最終目標でもあると思います。

本日の聖書の箇所創世記にアブラハムのことがあかれています。サラの間に子ともができたのはアブラハム100歳、サラ90歳のときです。これは神からの約束でした。そしてアブラハムの子孫を星の数のように多くなると約束されました。そして、現在2010年1月現在国連推計で人類は69億人になっています。キリスト教合計 19億6700万人 イスラム教合計 11億4700万人 ヒンズー教7億4700万人、儒教・道教3億6900万人(これは宗教かどうか?)か、仏教合計 3億5300万人(1997年調べ)。ユダヤ教1500万人となっています。
アブラハムの子孫とはいろいろ解釈の仕方はあるでしょうが、イスラエルの民族だけと解釈しても1500万人に増えたことになります。キリスト教だとすれば20億近く、全人類だと考えれば69億ということになりましょう。この旧約聖書のことばはうそではないように思えます。100歳のアブラハム、90歳のサラに子どもが与えられました。イサク(笑い)という名前になりました。100歳と90歳のサラに子どもが与えられました。それはなぜか、人間には決してなしえないように見える事柄です。それができた理由は、神様が約束されたからです。その約束をアブラハムとサラは笑いました。嘲笑ったのです。そんなばかみたいと、しかし、それが実現した今、アブラハムとサラは、喜びと感謝の笑顔になっているに違いありません。

聖書の中にはこのような神様からの約束が書いてあります。新約聖書マタイ1章12節から25節、本日の聖書の箇所ですが、イザヤ7章14節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と旧約の時代、イエスが生まれる7・800年前に預言されていたことです。神の約束とは時代のスケールが違いますね。人間の感覚を遥かに超えたものです。

神の約束は、自分の民を、罪から救うとあります。
わたしたちは、罪を犯す、罪人であり、なかなか、自分の罪を正すことが出来ない、完全に取り去る事の難しさを、覚えていませんでしょうか?
私自身はこの罪のために苦しむ者でもあります。特に人を愛していく、赦していくことにおいては、力がない、心からそのようにはできない、そのような者であります。
こういう罪から神が自分を救ってくださる。イエスの十字架の贖罪(不条理に受ける苦しみ)を知ることができます。

罪を自覚し、贖罪のイエスの十字架を思うところに、悔い改めが生まれてくるように思います。私が犯した罪はイエスの不条理な苦しみによって贖罪されている。聖霊の不条理な苦しみによって贖罪されている、もしかしたら、不条理な苦しみを受けている、あの人は、わたしの罪の身代わりなのではないか、という思いがするように思います。ここまで言ってしまうと、あまり神秘主義的になってしまいますが、わたしにはそういう感覚があるんです。一緒に住んでいる精神疾患のオバや言語障害の方々を始め、地震被害で苦しんでいたり、予期せぬ災難にあって苦しんでいる人たち、不条理な苦しみにあっている人って、もしかして、私の罪の身代わりになってくれたんじゃないかと思うことがあります。アーサーキング牧師もそういう思いになっていたそうです。

神の力、聖霊の力が働き、自分の罪が、イエスの十字架ともに不条理な苦しみにあっているおおくの方々が、贖罪してくれているのではないかと思います。
そう思うと、自分は、自分の罪に対し、悔い改めるようになっていくと、思います。病気がちのオバを大事にしよう、病んでいる人や苦しみに合っている人たちに何か捧げよう、そいう、御業が創造されていくように思われます。タイガーマスク現象もそういうことかもしれません。また、そういうことをし続けていくとき、自分限界を感じる、しかし、また、そこから、赦しを経験することがあるのです。おばの例をだせば、先日、となりの人の葬儀があって、あばひとり留守番だったのですね。不安が強くなると、泣きわめいてしまうんですね。感情や気分の興奮や乱れが生じるようで落ち着かないのですが(リスパダールという薬でだいぶ抑えられるのですが)、足が痛いというので、湿布をもってきたんですね。一人留守番したあと、不安定になっていたらしい。そのとき、私、ひどいですね。一人で貼れ、貼れないか、見ていて、貼れないと思って結局貼ってやったんですが、椅子に足を上げさせ、苦しそうな格好にしてしまった。貼って、妙にくっつきにくいところがあるんですね。靴下履けば大丈夫でしょう、などと、ちょっとぶっきらぼうに言ったんです。本人、精神が少し不安定になっているから、靴下もうまくはけない、何やってんだ、と少し軽蔑したように、みたりしていたんです。酷いですね、私。そうしたら、本人、「ありがとうございました」って言うんですね。そんなことをした私に。これが、神の赦し、エスの十字架の赦しだと思ったのです。こういうように、私は、病み、苦しみ、悩むおばから、わたしが蔑んだにも関わらず、イエスの神を知り、赦しの神に触れ、実際赦される、奇跡と驚き、喜びすらを得ていくように思います。そのことを通して、不条理に苦しんでいる周囲の方々を支える使命が、共に苦しんでいこう、悩んでいこうとする、悔い改めの意思が生まれてくるように思います。

罪を赦してくれる神、不条理な十字架の苦しみを受けた主イエスが共にいることを覚え、そして実際我々の暮らしの中には、不条理な苦しみを受けた人を通して、不条理な苦しみを受けた人との関わりを通して、罪を赦す贖罪の業が示されるという神の業を見、そこに、悔い改めの暮らしを神と共に創造されているということに気づかされます。

もう一つ例をだしましょう。苦しむおばを蔑んだ罰みたいな(笑い)ことですけど。
ある人にとても受け入れがたいことがあると、挨拶もしたくなくなることってあるのではないでしょうか。その人に会うと萎縮してしまうような人ってありませんか。もう、そういう人、なくなってしまえばいいと思うような人っていたんですね、同僚で。私に合うと文句ばっかり言う、あんた、いるだけじゃない、資格もっているんだったら、しっかりやりなさい、とか言いたいことぶつけてくるんですね。私は本当のこともあるので、黙っていたんですが、とても苦しかったです、わたし。どうしてこんなに、苦しんで、その人と一緒に仕事しなくちゃいけないんだ、と思っていました。しかし、その人、仕事辞めるって言い出した。私に、職場幹部には話していたんですが、平職員の中では、一番初めに言ってくれたんです。その人も仕事では苦しんでたんですね、私以上に。私に気を使ってくれたんですね。それで、私は送別にCD送ってやったり、送別会してやったり、することになって、その後も友好が続く羽目になってるんですね。こういうのって神様の業と思うんです。不条理な苦しみを共に担うご縁で、最終的に喜びを得る自分の意志とは違う、神の業、奇跡、むかつき合う人とも苦難を共にし、付き合っていった結果、与えられる喜び、奇跡。日本人的感覚では、神の業とのご縁(出会い)というのではないでしょうか。

神の業とのご縁(出会い)ということに預かることによって、人々は不条理な苦しみを共にします。アブラハムやサラの場合は老人になるまで不妊であり、老人になって妊娠、出産、マリアの場合は処女妊娠、ヨセフも関係の無いフィアンセの妊娠。イエスの十字架の死、親より早く死ぬという親不孝。神とご縁があるとこういう不条理な不幸、苦しみに合います。私もおばも同僚も苦しみました。

そして、どういうことが起こるか。最終的には慶びのある状態へと導かれていくのだと思います。個人的に悔い改めていく暮らし、これもその一つでしょう。教会での礼拝共同体、聖餐共同体もそのひとつでしょう。社会的弱者差別や偏見を受ける方々とともに平等を求めていくことも、社会福祉の業その一つでしょう。医療や教育・保健子育てなど福祉に携わることも神の創造の業ととらえられるかもしれません。平和活動もです。神の創造の業は今でも続いています。

このような神との出会いご縁は私たちに不条理な苦しみを共に担わせられるようです。だからといって逃げないで、そのご縁を大切にすることで、周囲の不条理に苦しんで方々もすべて救われ、すべての人の罪が赦され、この世でも平安と喜びの日々がくることを望み、それを神の約束と信じて歩んでいきたいものです。不妊という不条理な苦しみを負ったアブラハムとサラの子孫が地上では60億を越える多くの子孫に恵まれ、死後は罪赦され、永遠に生きることができる、そのような祝福が、不条理な苦しみを負っている、私たち、あなたがた、ひとりひとりにも、きっと、待っています。