創世記20章1節~18節、ヨハネ20章19節~23節 -平和の共同体形成の心得-誰の罪でも赦す 年末には華やかな紅白歌合戦があり、平和だなと思いながら、見ていましたが、ドリームズ カム トゥルーというグループで赤組が〆られたようですが、彼らクリスチャンなんですってね。見たかったんですが、説教つくりや、次の日の準備で残念ながらみることが出来ませんでした。ドリームズカムトゥルーって夢が本当に叶うっていう意味でしょう。いいことばですよね。彼女らの歌は非常に洗練されていてうまい、多くの努力の跡が、隠されているようにも思います。それだけに、聴く人多くの方々に元気や希望を与えていることもあります。 わたしたちキリスト者というのは、今日の聖書の箇所にもありますが、神の恵みが、キリスト者を通して、あるは、共同して、他宗教の人々にも及びうることが示されているように思われます。鳴子保育園もそうでしょう。 あるいは他宗教の方々の世話になったり、私のように、他宗教の方々にご迷惑をお掛けしながらも、キリストの恵みを現したり、実践したりしていることき気づかされる者です。 しかも、アブラハムはここでは嘘つき、人を信用できず、妻を捨て、利用するどうしようもない人として描かれています。自分の保身に必死となるような、いぎ好かない人ですね。 そのようなアブラハムであっても神から祝福を受けていき、他宗教の者アビメレクに神は関わり、アビメレクを通してアブラハムを救い、恵みを与え、アビメレク自身にも恵み(宮廷の不妊の女性が胎を開かれること)を与えていくことをなさっている、というのが今日の聖書の箇所の要旨です。 創世記では前にもエジプトに入るところでも同じようなうそをアブラハムはついていました。今日の箇所はカナンの地の付近、塩の海と地中海の間あたりでの出来事です。2度もアブラハムはうそをつき、当時の権力者(エジプトの王や今日の場合はペリシテ人)に、取り繕うとしているようです。人が生きるには長い物に巻かれるようなことも必要なのでしょうが、どうも、信仰者として、やっていいのかどうか、迷うところです。 ところが、神の働きによって、エジプトでも、ここペリシテでも、アブラハムは守られ、優遇されていくことになります。偶像を捨てよ、他宗教から離れるように、旧約聖書に示されてることもありますが、聖書には他宗教のものから、ヤウエーの信仰が助けられたり、他宗教のものでも神の業に関与し、祝福さえ受けていくということすらあるようです。 私は10年間、施設に勤めさせてもらっています。その中で、私は牧師であると言うことを知る方々が増え、聖書を読んでくれ、祈ってくれ、クリスマス会できよしこの夜歌を歌ってくれなどと頼まれるようになりました。施設はキリスト教に関係しませんが、それでも、施設長や施設の有力者が神の存在を認めるようなこともあるような話をされたこともあります。 弱い者にとって、この世の力に支えられながらいかざる負えないことがあります。わたしもその一人です。神から選ばれたイスラエルの民もそうでした。決して力ある者ではなかった。最も貧弱な民でありました。旧約の歴史を見れば、イスラエルの王国はできあがりますが、それもつかの間、滅んでしまいます。 そういうイスラエルの民をもヤウエイの神は見捨てず、目に留め、異邦人に主の恵みを著して、イスラエルの民を救おうとされています。どのような民も主の救いから漏れないようにしたいと主は思っているのではないでしょうか。それがイエスキリストの十字架でした。主が愛するイスラエルの民、ユダヤ人のために十字架にかかりました。十字架にかかったあともユダヤ人はイエスを無き如くのように扱うのですが、それでも、イエスはユダヤ人を救いたい、救うと言う意志をもっている。これは、パウロのローマ書11章を見れば分かりますが、ロマ書11章には、すべての人を神に従えぬ不従順になっているということも語っております。 さて、私たちは信仰者として生きています。信仰者ですから、神に従って生きているか、といいますと、そうではありません。罪を犯しつつ、神に従えないで生きている者です。そして、罪を犯したときは、苦しみにあいます。愛せない切なさを覚え悲しみながら、み心を十分にできないことを嘆きながら、生きるものではありませんか。少なくとも私はそうです。12弟子らも弱い者の様でした。彼らはイエスの十字架にあったあとは、ユダヤ人を恐れて、自分たちの家に鍵をかけているような者でした。 しかし、そういう者でありながら、イエスは語ります。今日のヨハネの福音書20章19節から23節では、「あなたがたに平和があるように」とイエスはまず述べ、2度「平和があるように」と述べ、「父が私を遣わしたようにあなたがたを遣わす」と語ります。そういってから、イエスは、弟子たちには主の息吹、聖霊を吹きかけられ、そして、言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でもあなたがたが赦さなければ、その罪は赦されないまま残る」ということを語りました。 罪を赦すかどうかは神様の領域だと思っていましたが、ここでは、聖霊を受けた弟子たちに、罪の赦しの権能を与えられました。この赦しの権能とはどういうことかといいますと、主の祈りで、「われらに罪を犯すものを、われらが赦す如く、われらの罪をも赦したまえ」 というように祈ることにも表れていることだと思います。この箇所はマタイ福音書6章13,14節にありますように、「もし、人の過ちを赦すなら、あなたの父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないのなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」と語っているようなことと同じことです。自分が他人の罪を赦すことで、自分も同じ罪を犯した場合、神から赦されるし、他人の罪を赦さないのなら、その罪を自分が犯した場合、罪は赦されないということを語っているのだと思います。 目には目を、歯には歯をから、罪の赦しへとへの変更です。これは、なかなか難しい。 意図的な殺人犯や暴行犯、異常心理者の嫌がらせなど赦せというのであろうか?これはなかなか私自身決着の付いていない問題です。聖書には7の70倍赦せとか、敵を愛せ、というイエスの命令が多く出てきます。裁判員制度で庶民の司法に対する理解を深め、庶民感覚の裁判をしていこうという国の方針で、死刑判決も含む凶悪犯の裁判がなされています。 心情として死刑の気持ちもわからないこともありませんが、一方で、聖書では罪の赦しをイエスは説いています。この人間的感情と聖書の御ことばの板挟みになり、わたくし自身は悩むわけです。それに、知識・経験の狭い自分に人の罪を裁けるというのでありましょうか。 聖霊を受けなさい。罪人である私たちに聖霊が与えられた場合、悩みや苦しみや迷いが生じてくるのではないでしょうか。紅白歌合戦のような華やかさの中でもみ心を果たそうとする、ドリムズカムトゥルーにもそれ相当の悩みや苦難があったばずです。しかし、わたしたちが聖霊を受け、悩み苦しむところにも、平和があるのではないでしょうか。何のために聖霊を受けるのか、今日の聖書の箇所2箇所から考えますと、平和を築くためであり、そして、他者の罪を赦すためです。その罪の赦しは誰にでも通用できることが示されています。従って、本日の聖書から我々へのメッセージを考えますと、キリスト者同士はもちろん、キリスト者になっていない家族、友人、職場の同僚、地域の方々、日本全国の方々、欧米など、日本がモデルとしてきた国々、さらに、中国や北朝鮮のように、経済的軍事的脅威を感じるような国々の方々も含め、全人類の罪の赦しや、平和を目指せということでしょう。そして、本日の聖書の箇所からは、おそらく平和は他者の罪を赦すことによってのみ実現するということを教えてくれているように思います。完全な平和は今は実現しないかもしれません。人には赦せないことがたくさんあるからです。しかし、聖書の言葉をそこに加えることで、人は悩み苦しみながらも、赦しへ向かい、平和を実現しようとするのではないでしょうか。そして、いつしか、必ずや、神が支配する神の国が完成する時がくることを待ち望む希望があるのです。これは聖書に黙示録や預言書に書かれていることですけれども。 教会とはそのような希望のある場所であると思います。聖霊を求め、受ける場所でもあります。そして、平和に人々が暮せるための希望が、それぞれの暮らしの中で、罪を赦すような智恵や奇跡さえも与えられる場でもあると思います。本日の創世記の箇所、ヨハネ福音書から考えますと、異教徒と共に、平和を実現(救いを実現)するための、赦しの智恵や奇跡が与えられる、その源となる聖霊を受けよ、とイエスが語っていることであると受け止めることができます。 新年にあたり、平和をそれぞれの方々の実現するために、聖霊を受けましょう。もし、聖霊を受けたのなら、平和実現のために、どのような人、誰をもの、罪を赦す智恵や奇跡が与えられることもありうること、それには、悩みや苦しみ、迷いが伴うこともあるでしょうが、最終的には人に足りない部分を神自身がなさってくれます。この希望をもって、新しいこの年を始めてまいりましょう。 祈ります。