その十人のために滅ぼさない

及川 信
その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するた
めである。」
主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」
その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。アブラハムは進み出て言った。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」
アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」
アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」
アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。
もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。
創世記18章16節~33節

今日は、六一年前に広島に原爆が投下された日です。それに間に合わせるかのように、一昨日、広島地裁で原爆症認定に関する判決が出て、原告の全面勝訴という判決が出ました。つまり、国の判定基準の適用が違法であると認められたということでしょう。裁判というのは、法の基準に照らしてどちらの訴えが正しいかを判断するものだと思いますけれど、私たちはその判断を聞きながら、「よかった、まだ正義が生きている」と思ったり、「これじゃ、死んだ人が浮かばれない。正義もへったくれもないじゃないか」と憤ったりします。そして、それは直接の当事者ではない私たちにおいてすらそういうことが起こるのですから、実際の当事者にとっては、そこで正義が貫徹されるかされないかは大問題です。
求刑されている刑罰が死刑であるならば、正義の判決は被告人にとっては生と死を分けるものですし、一喜一憂という範囲を越えた、生きるか死ぬかという問題です。宗教的な言葉を使えば、滅びか救いかという問題になります。
今もレバノンやイスラエルで戦争があり、イラク国内も悲惨な内戦状態といってよいのでしょうし、もう報道されることがメッタにありませんがアフガニスタンにおいても局地的な戦闘は相変わらず続いています。そういう戦場で戦う当事者達の心の支えは、自分達は正義のための戦いをしているのだという自負だと思います。自由と正義を守る戦いをしていると一方は思っているのだし、他方は神のために聖なる戦いをしていると思っている。
つまり、双方とも「正しい戦い」をしている。そういう「正しい戦い」に巻き込まれて、家も財産も失い、また愛する家族すらも殺されてしまう人々が後を絶ちません。2001年のニューヨークのテロによって引き起こされたアフガニスタンの戦争において、まさにそういう目に遭った老婆の写真が新聞に掲載されていたことを、私は今でもよく覚えています。
廃墟のようになった場所に、みすぼらしい小さなテントを張り、その中にポツンとやせ細った老婆が座っているのです。その写真の下に、老婆が言ったとされる言葉が記されていました。
「何もかも失った。ただ神への信仰だけが残った。」
彼女は、そう言ったのです。日本的に言えば、「神も仏もあるものか。この世は地獄だ。神は鬼だ。無慈悲なお方だ。無力だ。何も出来やしねー」と毒づいてもおかしくない境遇の中で、「ただ神への信仰だけが残った」と言う。この神とは、その信仰とは、何なのか。この老婆の言葉は、「正しい者は信仰によって生きる」という御言を思い起こさせますし、その惨めな姿の中には侵すべからざる神聖さ、貴さを感じました。
しかし、「正しい」とか「正義」とは、一体何なのか?誰が正しいのか?正義の戦争をしている当事者なのか?その犠牲者なのか?その戦争と神との関係は何なのか?神はそこで何をなさっておられるのか?何もなさっておられないのか?神は正義なのか?正義だとすれば、それはどこにどのようにして現われているのか?今日の箇所は、そういった問題に深く関っていると思います。
アブラハムと主なる神様との関係も、それなりに長いものとなりました。かれこれ二十四年です。その間に、アブラハムは様々な試練と挫折を経験しながら、「正しい者は信仰によって生きる」とはどういうことかを学ばされているのです。そして、この時の直前には、「主に不可能なことがあろうか」という言葉を聞いてもいます。
そういうアブラハムだからこそ、人の姿で現われている主は、こう言われるのです。

「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」

ここに「正義を行う」という言葉が出てきます。アブラハムが選ばれたのは「彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うように命じる」ためです。彼がそのように生きることで、「主がアブラハムに約束したことを成就する」。つまり、アブラハムによって、より正確に言えば、彼の「信仰」によって、それは彼の「正義、正しさ」によってと同じことですが、罪に堕ち、呪いの中に置かれている全世界の民が祝福に入るという神様の約束が成就するためなのです。
しかし、それはそれとしても、そのことと、主がこれからソドムとゴモラという町になさろうとしていることをアブラハムに告げることと、一体、どういう関係があるのか?それが大きな疑問となります。
その問題を考える前に、ソドムとゴモラという町について、ほんの一言だけ触れておきます。この町が最初に聖書に登場するのは創世記10章のノアの子孫の民族分布表の中に、ノアの息子、カナンの子孫の住み着いた町々の中の一つとして出てきます。そして、そのカナンは裸に関係する、つまり性に関係する罪を犯して、ノアから「カナンは呪われよ」と言われた人物です。次に出てくるのは13章ですが、そこはアブラハムの甥ロトが、ソドムの町の豊かさに目がくらんで、遊牧民としての生活を止めてソドムに移り住んでいく場面です。そして14章では戦争の場面で登場します。ソドムは、死海沿岸の町で、鉱山があり、昔からその資源によって豊かな生活が出来た町であり、それ故に、利権を巡る戦争もあった町のようです。そして、ソドミーという言葉が男色、男の同性愛を表す言葉になったように、性的にも非常に乱れており、さらに後の預言者たちの中では、不正と不公平が罷りとおっていた町でもあった。現在も格差社会が広がっていますけれど、富が集中する豊かな町というのは、その一方で家もない人々が沢山暮らしている町でもあることは現代の東京を見ても分かることです。性的乱れ、経済的繁栄とそれに伴う腐敗、堕落、そういうものがすべて集まっている町として、ソドムとゴモラは聖書の中に登場します。
神様は、その実態をこれから調査して、「果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」とアブラハムにお告げになった。それは何故か?これが先ほども言いましたように、今日の箇所における一つの問題です。そして、その問題は「正義」、また「正義を行う」という言葉との関連で極めて大きな問題になっていくことになります。そのことを心に留めつつ、今はもう少し先まで読み進めて行きましょう。

その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。アブラハムは進み出て言った。

「その人たち」と出てきたり「主」と出てきたりに関しては、先月の説教で触れてあるので、今日は無視しますけれど、主がこれから為さろうとしていることを聞いたアブラハムは、主が人としてはソドムの方に向かっていった後も、主の御前に立ち続け、さらに進み出てこう言いました。(こういう表現の仕方は、ゾクゾクするほど面白いのですけれど)

「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」

問題の中心は、正義です。「全世界を裁く神は、正義を行うべきだ」と、アブラハムは主張しているのです。
彼が主張する「正義」、それはしかしよく考えると不思議な正義です。彼は「正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」と尋ねます。これは分かります。正しい者が悪い者と一緒に滅ぼされることが正義だとは思えません。しかし、その後の言葉が、ちょっと変わっているのではないでしょうか。

「あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにならないのですか。」

私たちは通常、「正しい者は滅ぼされず、悪い者だけが滅ぼされるべきだ」と考えるのではないでしょうか。たとえば、ノアの洪水などは理解できるし、納得できるわけです。悪い者は皆、洪水に流されて、神に従う完全な人であるノアとその家族は救われる。「ま、それは当然だわな」と、私などは思います。しかし、アブラハムは、そうは考えない。正しい者がごく僅かでもいるとすれば、その者のために、他の悪い者たちも赦し、何時の日かの悔い改めを待つべきだ。そこにこそ、神様の正義があるのではないですか?と言っているのです。
神学の言葉に「神義論」というものがあります。神様の義、正義とは何か、あるいは神様とはそもそも正義の神なのか、を考える議論のことですけれど、これは人が神様を知ってから今日まで、ずっと問われ続けていることだと思います。
たとえば、戦争において犠牲になるのは、戦っている兵士だけではありません。また、戦争することを決定する人たちでもありません。政治家は戦場では死にません。大統領も、天皇も戦場には行きませんし、そこで殺されることはありません。爆撃や銃撃を受けて死ぬのは、市民です。それも主に弱い国の方の市民が沢山殺されます。そこに人間の非常に重い罪の現実があるとは思いますが、いつも弱者が死んで、強い者は死なないという現実を、どう考えたらよいのか?そういうことを放置している神様は正しいのか?全能なのか?正義の神なのか?
また原爆は二発も日本に落とされました。アメリカの人々の多くは、今もって、それは平和のためであり、正しいことであったと言うでしょう。私個人は、勝てる見込みのない戦争を天皇制という「国体」を維持するために延々と続けた人々に大きな責任があると思っています。しかし、それにしても、あの原爆によって地獄の苦しみを味わいつつ殺されていった人々、またその後現在に至るまで原爆症とそれに起因する病気や差別に苦しんでいる人々、彼らは「悪い者」だったのですか?あの方たちは、どうして、また何のために、あのように殺され、またその後も苦しみ続けなければならないのですか?神様、あなたはあの時、正義を行われたのですか?
神様は正しいのか、正義を行っておられるのか?そういう疑問を、私たちは誰でも抱いています。しかし、そういう私たちは、自分のことをいつも正しい側に無自覚の内に置いているものです。人の正義を問う時、神の正義を問う時、あなたは正しいのですか?!と詰め寄る時、私たちは「自分は正しい」と思っている。しかし、私たちはいつも正しいのでしょうか?また、その正しさ、正義とは何を意味しているのでしょうか?人や神を問い質すだけでなく、自分自身も問い質されなければならないことは言うまでもありません。
もう一度、最初に戻ります。ここに登場しているのは主なる神様とアブラハムだけです。
その両者が互いに正面から向き合っているのです。そして、その両者が同じ言葉を言っています。つまり、同じことを互いに要求しているのです。「正義を行う」ということです。
主はアブラハムに、「子孫に主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じる」ことを求めておられる。それはつまり、彼自身が正義を行うことを求めておられることと同じです。
そして、その正義を子孫に引き継がせることが彼の使命だし、正義を行うことが、彼の子孫の使命でもある。彼とその子孫がその使命を真実に生きる時、アブラハムの子孫は「大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」ということが実現していくのです。となると、彼が正義を行うということは、ただ単に彼の問題に留まらないということです。正義を行った者は救われ、悪を行った者は滅ぼされるということではなく、正義を行った者のお陰で、その他の者も祝福に入れられるということが、ここで言われていることになります。いや、さらに言うと、他の者たちが祝福に入るようなことをすること、それが正義を行うということなのではないか?神様がアブラハムに行うことを心ひそかに求めている「正義」とは、実は、彼にだけ関係することではなく、世界の民の祝
福、救いに関係する正義なのではないでしょうか。
そして、アブラハムがここで必死になってやっていること、それはまさにその「正義」なのではないでしょうか?彼は、神様が正義を行うことを願っています。もう必死になって願っているのです。これは第一義的には神様を愛するが故に、神様の御心が行われることを願っているということです。しかし、それは同時に、ソドムの住人たちへの赦し、祝福を願っているということでもあります。彼は、悪人がその悪の故に滅ぼされることを願わず、「正しい者」の存在ゆえに、赦されることを願っているのですから。そして、その「正しい者」の存在ゆえに悪い者を赦すことこそが、神様の正義であるはずだと訴えているのです。つまり、ソドムの人々のために、ソドムの人々が全く知らない所で、こうやって訴えるアブラハムがいるのです。このアブラハム、彼こそが、世界のすべての民の祝福の基であるアブラハムなのだし、この時のアブラハムは、まさに正義を行っているのです。
「正義」、それは私たちの意に反して、人の罪の赦しを神に執り成し祈ることです。なんとかして赦して欲しいと祈り願うことです。神様は、アブラハムにこの正義を行うことを願っているし、アブラハムの子孫にも願っている。だからこそ、神様はご自分の業をいきなりやらないで、わざわざアブラハムに告げているのです。そして、アブラハムが、そこで何をするか、してくれるかを試してもおられる。神様が選び立てた目的である正義を行ってくれるのか?それとも、「ソドムは自分とは無関係だから、どうぞ神様お好きなようにおやりくださいませ」と知らん顔をするのか?そのどちらであるかを、ここで試しておられるのだと思います。そして、この時のアブラハム、彼は本当に見事に神様の期待に応えて、正義を行いました。そして、その正義、執り成しの祈りにおいて世界の祝福の基礎となっているのです。
『聖書』を新約聖書まで読み進めて行けば、この意味でのアブラハムの子孫とは、実はユダヤ人ではなく、私たちキリスト者であるということが記されています。アブラハムは信仰の父だからです。天地の造り主にしてイスラエルの神、主を信じて、主に従って正義を行った最初の人はアブラハムです。そして、私たちキリスト教会は新しい神の民イスラエルであり、私たち一人一人は、それぞれにアブラハムの子孫です。だとするならば、アブラハムから「主に従って正義を行うように命じられている」ということになります。しかし、その正義とは、キリスト者である私たちにおいてはどういうことになるのか?
イエス様のことを「アブラハムの子ダビデの子」とマタイによる福音書は定義します。
そして、ルカによる福音書は、イエス様を「正しい人」、つまり、「正義の人」と定義します。どこで定義しているのでしょうか。それは十字架の場面です。
ルカによる福音書23章44節以下を読みます。

既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。

百人隊長が見た出来事は、今お読みした所だけではありません。彼はピラトの裁判の時から、この時に至るすべてを間近で見ており、見ただけでなく、イエス様をぶっとい釘で十字架に打ちつけるように命令したのは、彼でしょう。その彼が、二人の犯罪人に挟まれて十字架につけられたイエス様が、こう祈られた姿を間近に見たのです。主イエスは、こう祈られました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

神の子であり、またアブラハムの子であり、ダビデの子であり、メシアである主イエス様を、誰であるか知らず、神様を冒涜する大罪人として殺すことこそ正しい裁きであり、自分達は正しいことを、正義を行っているのだと堅く信じている人々のことを、イエス様は「自分が何をしているのか知らないのです」と言っておられます。つまり、自分達が間違ったことをしていること、悪を行っていることを知らないのだと仰っている。しかし、そこで悪を行っている者たちを、どうぞ正しい裁きで裁いてくださいとは仰らない。「彼らをお赦しください」と祈っておられるのです。そのことが、主イエスがお考えになる正しいこと、神様の正義だからでしょう。
さらに、死刑になって当然の悪事を繰り返してきた犯罪人の一人が、
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」
と言うと、主イエスは、こうお答えになりました。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」
イエス様は、自分は正しいと思ってイエス様も犯罪人も十字架にかけている人々の罪の赦しを祈り求め、さらに自分が悪いと分かって赦しを求めている犯罪人には赦しと救いを宣言されたのです。
そして、最後の時、ご自身を神の御手に委ねる信仰を告白して息を引き取った主イエスを見て、ローマの法に従った裁判の結果を忠実に執行しつつ、自分は正しいことをしていると確信していたであろう百人隊長は、
「本当に、この人は正しい人だった」
と告白をしました。
この正しさ、正義とは、ローマの法律に照らしてとか、ユダヤ人の律法に照らしてとか、人間の良心に照らしてとかいった次元の正しさではないのではないでしょうか。ここにある正しさ、正義は、神が求めている正義です。アブラハムとその子孫に求めている正義であり、それは神ご自身の正義でもあるのです。神様こそが、ここで正しいことを為さっているのです。
アブラハムとその子孫に求められている正しさ、それは罪人の罪が赦されるように、悪人の悪が赦されるようにと祈る正しさです。しかし、この十字架に掛けられたお方の正しさ、正義は、アブラハムのものとは違います。それは、このお方は神様に祈っているだけではないからです。このお方、イエス様は、罪人の罪が赦されるために、犯罪人を救うために、ご自身が身代わりになって死んでいるのです。イエス様を十字架につけているすべて人間が、自分が何をしているかに気づき、そして、自分が何をしていただいているのかに気づき、悔い改めることを、主イエスは願っておられる。
罪人が自分の罪に気づき、悔い改めた時に、その罪人が赦され、新たに祝福の命を与えられるために、主イエスが身代わりになって死ぬ。罪なき神の独り子が罪人の身代わりになって死ぬ。一人でも多くの罪人が救われることを祈り求めつつ死ぬ。そこに神様の裁きの正しさ、正義が現われている。ここでこそ、神はその正義を行っておられるのです。
私たちはよく「罪のない人々が殺されている。こんなことがあってよいのでしょうか」
という言葉を聞きますし、またそう思い、その思いを口にすることもあります。そういう言葉を発する時、その心の中にある思いは、「こんなことを放置している神様は、一体何をしているのでしょうか、神様なんてほんとにいるのでしょうか?という思いです。また、「神様がいるとしても、それは正しい神様、正義の神様なのでしょうか?こんな理不尽なことがまかり通っているというのに・・・・」というものでしょう。
しかし、その時、私たちは、私の罪のために、罪もない、悪事一つしたことがない神の子、ただただ父なる神の御心に従って愛に生きてくださった方が、神への冒涜罪とかローマへの反逆罪とか理由をつけられて十字架につけられた死んだことを忘れているのです。
神様は、このお一人の方が、すべての人間の罪の赦しを祈り求め、そして、罪が赦されるために身代わりに死ぬというこの事実の故に、私たちすべての罪人を今も赦してくださっているのだし、悔い改めを待ち続けてくださっているのです。そして、無残に殺されたすべての人々の死を、この方は共にし、御救いへの道を開いてくださっているのです。ここに神様の正しさ、正義が現れているのです。
神様は、必死になって正義を行っているアブラハムに対して、
「その十人のためにわたしは滅ぼさない」
と、仰いました。そして、それが神様の正義なのです。しかし、現実にはソドムにはその十人がおらず、アブラハムの甥のロトと娘二人が救出された以外に滅ぼされました。そのようにして、神様はやはり正義を貫徹されたのです。
そして、今、アブラハムの子孫である私たちに対して、「アブラハムのように、主に従い、正義を行いなさい」と命じておられます。それは、ソドムにいなかった十人になりなさい、ということなのではないでしょうか?
来週の十六日(水)は午前と午後、平和祈祷会を開きます。私たちは、互いに正義を主張し、殺し合いを続ける戦争の現実に直面しつつ、アブラハムの子孫として正義を行わなければなりません。私たちの正義の行い。その第一のことは、執り成しの祈りです。「主イエスの故に、私たちの罪をお赦しください。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈ることです。
「御父よ、どうか私たちを赦してください。戦争を止めることが出来ない、殺し合いを止めることが出来ない、正義の何たるかを知らないで、殺し合ってしまう私たちを、あなたの御子イエス・キリストの十字架の故に、赦してください。そして、どうかすべての罪人が、御子主イエス・キリストの十字架の下に集まって、悔い改めの祈りを献げ、主によってあなたと和解し、また互いに和解出来ますように。どうぞ神様、この地に正義を満たしてください。そのための道具として、私たちをお用いください。十字架と復活の主イエスの証人としてお用いください。」
私たちは、こう祈り、その祈りつつ正しく生きるしかないのです。
父なる神様は、
「わたしはわたしの御子の十字架の死の故に、世を滅ぼさない。そして、わたしが選んだあなたがたの祈りの故に、その正義の行いの故に、世を祝福する。あなたたちが、私への信仰と希望と愛を今後も深め続けていくなら、あなたたちは世のすべての国民の祝福の基になる。わたしは、あなたたちにそうなってもらいたくて選び、信仰を与え、訓練し、育てている。これからも礼拝から礼拝へ、祈りから祈りへと歩み、世界の中の十人としての歩みをしなさい。何も恐れることはない。私は、あなたと共にいるのだから。」
そう仰ってくださっています。私たちはアブラハムの子孫です。今この時、私たちは主の前に立ち、主の前に進んで執り成しの祈りを捧げる者であります様に。