謙虚に生きる
創世記 11章 1節~ 9節、使徒言行録 2章 1節~12節 

今日もみなさんと共に礼拝を守られますこと、感謝します。

世の中うまくいっているようで、よくよく、考えてみますと、混乱や迷い、苦悩があり、うまくいっていないように思いますね。こんなに進歩しても、エコ、エコと声高に騒いでおりまして、環境問題で、人類存亡の危機に陥っているようですしね。医療にしましても、日進月歩どんどん変わって行きますね。それだけ未熟だということですね。教育や福祉についても制度がどんどん変わりますね。ゆとり教育やったと思ったら、まずかったといって、止めたりですね。福祉でも介護保険の制度ができたり、改訂されたり、障害者自立支援法ができたかと思ったら、廃止にされるとか、制度がどんどんかわっていったりして、現場では混乱状態や迷いにあります。経済状態も安定していませんし、失業者がたくさんる状態になっていますし、自殺者も3万人を越える年が12年連続となってしまいました。苦悩する人々がなんと多いかと思うわけです。平和の問題も核兵器を持つ国が現われたり、これで、世の中うまくいっているといえるでしょうか。教会で礼拝を捧げられますことは感謝ですが、少子高齢化社会になっていますしね。柴宿教会は少数の高齢者によって教会を支えられているような感じで、わたしたちは教会の存亡に心を痛め、苦しみをにない、なんとかしなくちゃと思い、祈りを捧げている者でもあるわけです。時に諦めもしますが、しかし、今日のように思い立って祈ったりもしながら・・・そういういい加減な自分に情けなさを感じてもいます。世の中、自分も含め、うまくいっていない。完全ではない、やるべきことをしていない、そういう混乱と迷いと苦悩を抱えた状態といってもよいのではないでしょうか。
しかも、それは、今に始まったことではない。10年前、20年前も、物質的な環境は変わったしても、混乱と迷いと苦悩を持ち合わせ、何とかしないといけないと思い、祈りながら、歩んできたのも確かではないでしょうか。過去全て、もしかしたら、このような、混乱と迷いと苦悩を伴った状態を信仰者は、人は、歩まされてきたのではないでしょうか。

平和をテーマに旧約聖書を読んでまいりましたが、本日はバベルの塔のお話です。
そして、ペンテコステの出来事を重ねて読んで見ました。
そのことによって、我々が、混乱や迷い、苦悩など一見マイナスに見える状態にいることから見える、恵みに気づかされる、主の業が隠されていることを知るようになると期待しています。ピンチがチャンスに変わる。聖書がいいたいことはここにあったことに気づかされると思います。

ここの話は前章のニムロドという主の御前に勇敢な狩人が支配者となった、バベル国(?)の出来事について語られているようです。バベルというのはバビロンのことをさしていて、世界でもっとも力があった国と考えてもよいようです。

さて、このバベルの町どんな町だったのでしょう。東の方から移動して来た人々がシンアルの平野を見つけ、住み着きました。シンアルはバビロンのあったところらしいです。シュメール地方、メソポタミアの今のイラクバグダットから南方約110キロにある。ここは、とても住み良い街だったのではないでしょうか。肥沃な土地で人がすることは何でもできそうなところだった。ある意味、何不自由なく暮せるように思える、恵まれた環境だったのかもしれません。石の代わりに煉瓦を、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。文明があった、技術力もあった方々だったようですね。そういう方々が考えたことは、天に届く塔を立て、有名になろう」ということでした。

主はこの街の企てを妨害されました。
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主は有名なることや一つになろうとすることを禁止させるために、それだけのために、聖書にこの箇所をおいているのだろうか?読んでいて疑問にもおもったところです。

有名になりたいと思う心や、現に有名な方々は世にたくさんおられます。マザーテレサなどもその一人でしょうし、イエス・キリストこそも世界で最も有名な方かもしれません。
こういうことから考えると、有名になろうという気持ちや、有名になることを、神様は絶対に赦さないか、ということになると、そうでもないらしい。もちろん、高慢な心を神も人も嫌う。人間の生きる目的として、謙虚に生きたり、思いやりを持つように生きることをあげていくことは重要だし、それが何かを成し遂げる上で、成功の元になったりもするし、神からもみとめらることはありうることだと思いますが、ここでの聖書がいいたいことは、有名なろうとして、みんなで一つになって、チリジリにならないようにすることは誤りだ、ということをつたえたいのだろうか、と思い、悩んでしまうのです。
つまり、ここで、聖書は我々にそれぞれ、謙虚に生きろ、とだけのことを言いたいのだろうか、と迷ってしまうのです。

それにはいろいろな解釈ができるからです。
人間の傲慢さを示し、謙虚に生きることを勧めるメッセージとして、
人間のおもいは神の思いと異なり、有名なろうとして行っても、お互い聞き分けられなくなってしまう状態になってしまい、有名になろう、神の企てに異なる企てを行っても、完成しないこと、
支配者、独裁者的閉鎖的共同体の崩壊をしめし、神がいつも支配するような世になるというメッセージ、
人々が天に届くような思いをもち、神に変わってその座に付こうとするが、それはできないということ。
その神に変わる人間の造った神というのは、軍事力である、人間の支配は軍事力、破壊する力である、という解釈。
実際にシュメール文化にはバベルの塔のようなものがあって、ジグラットという神殿つきの建物やピラミッドのような建物で、当時も天まで届くような塔を造り、神のようになりたいと思う人々が多くいたらしい、その神話の影響を受けて、聖書の伝承に入れられた、という解釈など。
統一より、混在化する世界が神の創造であろう。

いろいろあって、どれを自分が採用したらよいか、どうしたらよいのか、迷っているのです。聖書に描かれている人も混乱したように、読者のわたしもここで混乱させられてしまうのです。
わたしの信じている神はいったい、どんなことをわたし達にもとめているのだろうか?
愛せよというが、敵を愛せよというが、神は愛なりというが、神に倣えというが、この混乱は神の愛の現れなのだろうか?と
そして、この混乱は旧約聖書を通して示されていることではないでしょうか?
神を神と信じ得ない人間の営みが旧約聖書にずーっと示されてくるのではないでしょうか。

そして、イエスキリスト、罪の赦しのため十字架にかかっていくイエス。当時のユダ人は、迷った、混乱した、悩みの種となったのではないでしょうか。
誰一人として、十字架上のイエスを、どうどうと、自分の神だとは、とてもとても思えなかった。しかし、復活し、昇天。
迷い、混乱し、悩んでいた弟子たちに。聖霊が降った。そこで初めてイエスは自分たちの救い主だと伝えることができたのでした。
しかも、聖霊を受けた、ガリラヤの人が、世界中のめいめいの故郷のことばで話し出したのです。人々はみな驚き、とまどい、「いったい、これは、どういうことなのだろうか」と互いに言った、とあります。主の業は、人には、とまどいを生じさせるようです。また、「あのひとたちは新しい葡萄酒によっているのだ」という人々もいたのです。
キリスト信仰は、信仰によって、自分の歩みに、混乱や迷い、苦悩を伴うものなのではないのでしょうか?

信仰共同体にもさまざまな問題が生じていきます。そのたび、人々は果たして自分の信じているイエス・キリストは自分の救い主なのだろうかと、思ってしまうのではないでしょうか?
初めのころの弟子や信仰者も、信仰における、混乱や迷い、苦悩を伴って歩んできたのではないでしょうか? 使徒言行録やパウロ書簡では、混乱や迷い、苦悩を伴う信仰者へのアドバイスや共感、また、反省事項などが書かれているように思います。パウロさえ、自分は惨めだと、罪人の頭だと語っているではないですか。

そして、2000年の現在に至るまで、4世紀に東方のギリシャ正教と西方のローマ教会との分裂、16世紀に宗教改革を経験し、ローマカトリックとプロテスタントの分裂、プロテスタント諸派の分裂、決して、純粋な一つの信仰的共同体では成り立っていないグループになっています。
また、他の宗教同様、キリスト教は、人間の思いを実現するために,キリスト教を利用してきたこともありました。戦争責任を日本基督教団は告白しました。自ら日本のキリスト教団は、戦争に日本が勝利するように祈ったようです。戦争する日本国のために祈ったそうです。天皇を神と認めつつです。
これは、過去のことです。わたしは戦争はしらない、その時代の人ではないから、関係ないと思いたい。しかし、わたし自身に、その気持ちは自分にないか、よく、問ってみたいと思います。そうすると、実に自分にも、イエス以外に心惹かれてしまう、ドバイに塔ができたらしいですが、そういう富豪に興味を惹かれてしまう、今度冬のバンクーバーのオリンピックで中学生の高木美帆の活躍が楽しみだとか、イエス以上にそういうものに心惹かれてしまう、弱い信仰であったり、信仰があやふやではないかと思うのです。イエスキリストのことを、伝えていますが、もしかしたら、自分は偽善者でもあるかもしれないのです。
主の救い、イエス・キリストの救い、これは、わたし達、すべての人間、人類に与えられた。しかし、それを、人間は誰も信じることができないでいるのではないのか? それよりも人間を救うのは、力があって、世の中を問題なく、気持ちよく、収めてくれる支配者を指導者、政治家の方に気が向いてしまっているのではないか。
バベルの塔の時代の人間のように・・・・

聖書は、わたし達に、実は、このことに気づかせようと思っているように思います。人間は完全な信仰者にはなれない。世の中を繁栄させ、わたし達を、幸せにしてくれる、支配者、この、支配者が現われるのを待っているのではないのか。今、聖霊となって共にいてくれるイエスが共にいるにもかかわらずです。そういう問いかけをこの聖書の箇所から受けるものです。
そこには、混乱や迷い、苦悩が満ちている、バベルの塔の時代、神が意志疎通できなくした時と同じような、混乱や迷い、苦悩があるように思われます。

バベルの塔の街、建設の方が、みんなで全知全能の神のようになろうという方針で暮した方が目標が一つで暮らしに混乱や迷い、苦悩はないのかもしれません。しかし、そういう場合、そのような場合、能力のないものや、悪いことをしてしまった人や、性格が変わった人など、障害者などは神になれないと言う事で、抹殺されてしまうかもしれないのです。
そこは一見平和で何不自由ないように思われるが、実は、役立たずが殺戮され平和ではない、すべての人が快適に気持ちよくいくる様な状態にするための、能力があることを常に求められ、不自由さに満ちているのではないでしょうか。

人は神にはなれない、その前提から考えてみますと、神のようになりたいと思う人間の世界に神が介在するならば、混乱や迷い、苦悩は避けられないように思います。混乱や迷い、苦悩がない方がおかしいのではないのでしょうか?平和を築くためには、混乱や迷い、苦悩が伴うのは、平和ではないこの世で、戦争を肯定さえすることがあった日本では、当たり前のことではないでしょうか。自殺者が3万人12年続く今の日本で、命を守ろうとするとき、なお更、混乱や悩みや苦悩が伴うのは当然だと思います。

わたしはよく暮らしが何の問題もなく滞りなくスムースにいくことを望んで、そうならないと、不平不満を抱いていましたが、罪人である人類に、真の神が関わるなら、当然の如くに混乱や迷い、苦悩は生じてくるのでしょう。

混乱や迷い、苦悩があるからこそ、それに耐え得られるように旧約の時代は預言者が与えらたのでしょう。新約の時代は教会が与えられているのだと思います。

神と共にあるからこそ、混乱や迷い、苦悩があるのだ、自分にはどうすることもできない問題があるのだ、聖霊が働いているからこそ・・・そういうように思えるところに、現実の今の暮らしに、希望があり、幸いを感じるのです。
神と共にあるからこそ、混乱や迷い、苦悩があるのだ、自分にはどうすることもできない問題があるのだ、聖霊が働いているからこそ・・・そういうように思えるところに、私自身、謙虚になり、ただ、ひたすら、主イエスの憐れみと救いの恵み、これが、おそらく新の平和でありましょう、この平和を求める、希望と幸いを覚えるものでもあります。