創世記 11章 1節~ 9節
バベルの塔
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。


使徒言行録 2章 1節~12節 
聖霊が降る  
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、  
突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」  
人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。  

イザヤ書 2章 1節~5節 
終末の平和  
アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。  
終わりの日に/
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/
どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい  
多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/
御言葉はエルサレムから出る。  
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/
槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/
もはや戦うことを学ばない。  
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。  


平和をテーマに旧約聖書を読んでまいりましたが、本日はバベルの塔のお話です。
ここの話は前章のニムロドという主の御前に勇敢な狩人が支配者となった、バベル国(?)の出来事について語られているようです。バベルというのはバビロンのことをさしていて、世界でもっとも力があった国と考えてもよいようです。

灰谷健次郎という方は人間の向かうべき姿として、「他者を思いやる心」が大切だといっています。そのような人は名もなき人がそうだと語られていました。教育者のルソーも人間の目標を、教育の目標を、謙虚、寛容、寛大ということにおかれました。わたしはこれをみてとても驚きました。一体、これは、どういうことだろう。これで本当に良いのだろうか???

神のようになることをなぜ神は禁じたか?
ある牧師はここを、この町全体が、武力で破壊への道だったからではないか。と考えるようです。有名になって、この町だけに人がいるようにする。それぞれ勝手な道を開かない。閉鎖社会。これはおそらく、恐怖政治がしかれているのかもしれません。閉鎖社会。ある意味、カルト的な世界を意味しているのかもしれません。絶対的な人独裁者に、そういう人々に支配されることではないでしょうか。

神はそのような町を創らない。神の創造はそういう独裁者の世界ではない。

しかし、主はそういう人は創られなかった。地のいたるところに、いろいろな民族が、いろいろな言語で、暮らすように、された。「自由を」与えられたのではないでしょうか。神の掟に反抗することができるくらいの自由を人々に与えられた。人に悪を行うことができる自由を与えられた。しかし、そういう人々が、平和であることを主はいつも望んでおられる。

ペテンテコステの日、聖霊が降り、主イエスのことをそれぞれの地域のことばで語ること、伝えること、そういう道を主は我々に与えられた。


イザヤ書 2章 1節~5節 
終末の平和  
アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。  
終わりの日に/
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/
どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい  
多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/
御言葉はエルサレムから出る。  
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/
槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/
もはや戦うことを学ばない。  
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。  

と聖書にありますように、主は平和を望んでおられるのは事実だと思います。
教育者のルソーは人間の生きる目標を、教育での目標を、『謙虚』、『寛容』、『寛大』を人間の最終目標としています。

主を証するためなら、ことばを一致させる。分かり合えるようにする。
われわれの進むべき道が問題なのです。
どこに向かうのですか・・・
武力ではなく、力ではなく、
謙虚さ、寛容さ、寛大さ、愛といわれているもの、平和と言われているもの、感謝していけるものへ、赦し、それを行ったイエスの十字架へとわれわれ、いやわれは、その道を歩んでいくべきなのでしょう。一人です。一人一人です。
一人一人ですが、全員平和の道を歩んでいけるようになるまで、意識しつづけなくてはならない、一人一人、すべての人間が憎しみではなく愛を、不平不満ではなく感謝を、悲しみではなく喜びを、苦労ではなくやりがいを、貧困ではなく豊かさを、争いではなく平和を、破壊ではなく創造を、裁きではなく赦しを、一人一人、すべての人間が意識できるようになるまで、私たちは愛し、感謝し、喜び、やりがいをもって、豊かに、平和を実現するようにして、創造の業を赦しの業を成し遂げていくんです!われわれの基準、いき方の方向性はここにあるのではないでしょうか?

パウロも最高の道を愛と教え、それを追い求めなさい(コリントⅠ14章1節)と語っています。愛すること、それは、人にはできないこともあるでしょう。しかし、われわれの目標なのです。目標は達成されなくても目標です。この目標に私は希望を見出しています。

信仰と希望と愛、このためなら神は守り続ける。集団を一つにする。愛することのみが、混乱させない。秩序が生まれる。まとまっていくのではないでしょうか。

さて、この愛とはどういう道なのでしょうか。
今日の聖書の箇所から説いてみましょう。
自らは有名にならない道です。無名への道、有名、無名とは関係ない、そういうのはどうでもよいと思える道ですね。人々を自由にする道です。いろいろなところに自由に行っていいし、やっていい自由なのではないのでしょうか。いろいろな方々が混在して認め合える社会なのではないでしょうか。
なぜ、それが平和なのか?
一つにする方が力が必要ですし、無理があると思います。

叔母がいますが、精神疾患です。どうにも治りません。とても不安になって、生き残れるかどうか不安でしょうがありません。自信がありません。発作が起きてパニックになり混乱、盲迷してしまいます。こういう人と暮らすには、その人はその人でよいと認めて暮らさないと難しいのです。人前に行ってもおかしな感じでいてしまうから、介助者は大変迷惑なのです。というか、恥ずかしいのです。でも、そんなこといっていられません。彼女も人間です。自分は恥も外聞もかっこ悪さも引き受けて、開き直って、いるようになります。主よ、助け、憐れんでください、と祈っているようです。

しかし、それでよいのではないでしょうか。そうしないといけないのではないのでしょうか。いや、なんで、主よ、憐れんでくださいといのならなければならないでしょうか。なぜ、彼女と共にいることを恥ずかしいと思わなければならないのでしょうか???

ああ、そのとき、あの、バベルの塔を思い起こすのです。人は有名になりたい。人から、すごいと思われたい。天に届くような塔、それは、見た目に良い、のでしょう。素晴らしいと『人間が』思うことなのでしょう。人間の見栄と高慢、わたしたちの心に強く巣づくって離れない、バベルの塔、その塔が、この精神疾患の叔母と暮らすのを恥と思わせているのではないでしょうか。

私自身は、わたしの心の中にあるバベルの塔に気づき、その建設をやめよという、神の声を聴くものであります。また、主イエスの聖霊により、主の業を知る者でもあります。さまざまな方々と共に生きる、主の業を知る者でもあります。ならば、私は、どう生きるか、もちろん、精神疾患の叔母と共に行きますが、謙虚になり、主に感謝し、歩む者です。
謙虚に生きる、これが、平和の共同体の心得と思われますし、主イエスの十字架の罪の赦しを信じた結果生まれる、、心の状態だと思います。
主イエスの業を知り、十字架の罪の赦しを信じ、謙虚になって歩みたいと思います。