平和の共同体形成の心得、待ち望む 人の暮らしには、解決できない、多くの問題に出会います。 病気や怪我、事故、自然災害もその一つです。 そういう人間の力にはどうにもならない環境、個人や集団が滅んでしまうような恐怖、苦しみを負っているようなときに、その恐怖や苦しみを共有したもので、支え合う共同体が生まれてくる事は、滅びうる者を滅ぼしてはならないという思想、考えや思いが生じる所以ではないかと思っています。 病院や介護施設や福祉施設がこの世にたくさん出来てきました。これは弱さをできるだけ支える社会のシステムです。滅びうる者を滅ぼさない。そのような思想、考え思いがそこにはあるように思います。保育園や学校なども含めますと、保育や教育の分野では、弱さを支えたり、滅びうる者を滅ぼしてはならないという思想や考え、思いを育てることができる、社会のシステムだと思います。教会はそこに福音、滅びうる者を滅ぼさないということが含まれていると思われる神の意志、救いの意志、主イエスの十字架の御心でもありうると考えられる福音を社会のシステムに送り込む役割を担っているとも思うのです。 本日の聖書の箇所は洪水物語の結びです。洪水によって、滅ぼされるべき、人類が、神の好意を得たノアの一方的な選び(6:8)によって、ノアは神に従う無垢な人で、神と共に歩んだ(6:9)ためでしょうか、その理由は明らかではありませんが、ノアもノアの家族も生き物も、箱舟に入り、命拾いして助かりました。洪水から1年位経って、地上で暮らし始めるのですが、 さて、その後、ノアや息子たちを祝福します。よく、祝福と言われますが、祝福というのは、そうですねえ、日本ハムと巨人の日本シリーズで、巨人が勝ちましたね。そのときの巨人への祝福が観衆から与えられるわけです。おめでとう!とみんなに祝われるわけです。あれが祝福です。神様は、ノアや家族の家族を祝福する、おめでとう、と。洪水から助かってよかったね、という、だけでしょうか。そのことだけではないと思います。いや、助かったから、良かったね、と祝福されたのではないようです。 聖書には 「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あななたちの手に委ねられる。動いている命ある者は、すべてあなたがたの食料とするがよい。わたしはこれらすべてのものを青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。 また、あなたがたの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間同士の血については、人間から人間の命を賠償として要求する。 人の血を流すものは 人によって自分の血を流される。 人は神にかたどって造られたからだ。 産めよ、増えよ。地に群がり、地に増えよ。」 と記されています。祝福は、助かったから良かったということへの、喜びだけではなく、何代も生き続けることへの祝福、喜びではないかと思います。 命を滅ぼすのではなく、増やし続ける、配慮、その命を守るための定めをここに示します。 そして、次に契約や与えられます。 聖書を見ますと、 「わたしは、あなたたたちと、そして、後に続く子孫とも契約を結ぶ。あなたたちと共に居たすべての生き物、また、あなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」 更に神は言われた。 「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約はこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間においた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現われると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべての肉なるもとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現われると、わたしはそれを見て、神と地上の生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」 神はノアに言われた。 「これが、わたしと地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」 洪水によって地を滅ぼすことは決してない。 という契約です。ノアたちと生きている物すべてと結んだ契約。この世と結んだ契約です。 この地を滅ぼさないという契約を結んだのでした。そして、この契約は、代々とこしえに結ぶ。 「地はいずれ滅ぶ」というのが、科学者の予測ですが、ここでは、滅びないと言われているのです。このとき、旧約の時代すでに、人と生物に、神からの祝福と滅ぼさないという契約が与えられていました。 祝福と契約が神側から一方的に与えられました。すでにです。ここですでに永遠の命を得たのではないでしょうか??? わたしはええ~?そうだったのか、と気づかされてしまいます。 初めから神様はそのままのわたしたちをただ祝福され、滅ぼさないと約束されているのかと気づかされます。旧約の神は恐ろしい神でもあると教わったことがあります。熱情の神とか、妬みの神とか、裁きの神とか、しかし、ここを見るとどうも救いの神であるようにしか思えません。 問題はわれわれの神概念にあるのではないでしょうか。 神とは裁く、罰を当てる、悪いことをすると、不幸が与えられる、など、災いを人に与えることも神の仕業だと思っていませんでしょうか。 神は祝福しか与えない神だという風にとらえる事ができないのが,人間ではないでしょうか。 「人を滅ぼすのも呪うのも神しだいだと・・・」 ここが、不信仰というサタンの入り込む隙ではないでしょうか。神の祝福を取り消し、呪われた者として人を縛る。人は非常にびくびくしながら、神をこわい者と、不信の念をもたせながら、おそれながら生きさせてしまう。虚無という感情を人に生じさせ、希望を見失わせてしまう。 そいう状態に人間はなっていませんでしょうか。ですから、人間は、将来の滅びの世界に対して、懸命に生き延びるために、もがき、苦しみ、恐れから何とか逃れようとしてうめいているようにも思います。そして、時には命を自ら断ったり、他者の命を奪うということが生じてしまう。本当は神の祝福があるにもかかわらずです。信じきれないのが人間なのでしょう。そこには平和はありえません。 それを物語っているのが、イエスの十字架ではないでしょうか。人は神によって祝福に預かることができない、呪われる者になった、滅ぼされる者となった、という.人間の思い、背信が、神を滅ぼす結果に繋がったのではないでしょうか。自己中心で敵意、殺意、弱い者を虐げ、自分では何をしているか、見当が付いていない、何をしているのか、分からない、しかし、正しいことをしていると思う込んでいるかもしれない。世の中の若い方の殺人事件が最近もありましたが、なんとも悲しい限りです。 そして、イエスの十字架は、すべての呪いの否定、呪いの否定ですから、神は祝福の神であるということと、人の呪いを身代わりに受けていく神であるということを示した、出来事です。人の呪いが、神と人にむけられた結果がイエスの十字架の出来事でした。しかし、その呪いは、成就しなかった。イエスの復活によって、呪いは呪いにならず、死んでも復活するという奇跡的祝福に変わった。生きている神のノアの今日の聖書の箇所の祝福と契約は成立したままの状態にあります。 信仰とは、これに気づいていくことなのではないでしょうか? わたしたちは滅ぼされない。祝福と契約があるから、滅ぼされない。しかし、個人的には不信仰により、苦難や悲しみ、恐怖、死があるように見えたり、戦争や破壊などで、天地が滅びるように虚無的な空しい世を予想してしまうけれども、そして、残念にもその悪の道に進んでしまうことすらあるが、 聖書を通して、わたしたちは、イエスの十字架と復活があり、呪いと救いの不確かさから、祝福と契約に再び戻り、死しても永遠の命があり、天地が滅びても新天新地が生まれることを知り、そう信じたとき、苦しみや悲しみ、不安や恐怖から解放されて希望をもって、現状を受け止めつつも、希望をもって生きていけるのではないでしょうか。それは、漠然としている希望で、具体的にはよくわからないことかもしれませんけれども。 ローマ8:22-25 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由に預かれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に生みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけではなく、霊の初穂を頂いている私たちも、神の子とされうること、つまり、体の贖われることを、心の中で、うめきながら待ち望んでいます。わたしたちはこのような希望によって救われているのです。目に見える物に対する希望は希望ではありません。現に見えてるものを誰がなお望むでしょうか。わたしたちは目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 祝福された、この人生、そしてその本来喜びの人生が終わっても復活の希望、祝福と契約が復活する、継続していく希望を、滅びうる物は何もないという希望を、待ち望むことができます。 滅びうる物は何もない、このことを、わたしたち一人一人がしっかりと信じることができるなら、 永遠に続く、わたしたちへの祝福と契約を待ち望ようになったなら、 私たちは、敵意や殺意をもつ必要があるのでしょうか、弱い人を虐げる必要があるでしょうか。それより、今ここで、弱さを担う人と共に生きたり、誤った自己中心の生き方を悔い改めたり、神の愛を捜し求め、他者を愛したりしていくために、滅びうるように見える者が滅んでいかないようにすることに価値を見出していくのではないでしょうか。 祝福と契約を信じ、待ち望んでいくときに、滅びそうに見える物を滅ぼさないで行こうとする意志が生まれていくのではないでしょうか。 教会もそうであり、弱さを支える、医療・福祉・教育などの分野の活動のための共同体、つまり、それらを平和な共同体と呼びたいと思います、平和な共同体が、構成員の喜びをもって形成されていくように思われました。