平和な共同体形成の心得 神が創るから赦し合え 現代社会の人間は非常に自己中心であるということは、昔から言われています。明治、大正のキリスト者内村鑑三も当時の人々を自己中心であると呼んでいます。現代社会の様相をみても何か不安を感じるものです。年金の問題、低収入の問題、政治的腐敗、環境破壊、インフルエンザ、病気やテロなどの争い、核爆弾の保有国、人間の性格のおかしい人達、境界線人格障害、人口の減少、人を無性に殺したくなる人とかもいてこのような世の中では、人類は破滅するのではないかと思うこともしばしばあります。 内村がそういうことを言って、100年が過ぎました。しかし、不思議に我々はいき続けています。これは何ゆえか。全治全能の神がわたしたちを支えてくれるからにほかありません。 しかし、現実は思いのほか思い通りには行かないことが多いですね。失敗の連続が暮らしというものではないでしょうか。昨日も転んでしまったり、まあ、たいへんです。 本日の聖書の箇所は、神が創った世界がそもそも、どうだったか、どういう経過を歩んできたかを示している箇所の一部です。人間が共同体として暮し始めて以来、人間は神様の思うように生きてきたかと言うと、全く、逆の生き方をしてきました。神様のいい付けに背いて生きてきました。言う事を聞かない人間の姿が示されています。神様は人間を思うようにはできなかったという歴史が示されているわけです。 アダムとエバは、神様が食べてはいけないと言った善悪を知る木を食べてしまった。神からのたった一つの約束を破った。そして、子どものカインとアベルは、神が認めたアベルをカインが殺した。神様が良い人だ、とした人を殺した。亡き者にしたのです。なんという背信行為。親子共々神様の言う事を聞かない連中です。どうしようもないものどもです。しかし、それでも、神は、彼らを滅ぼさないのです。生かし続けます。アダムとエバには皮の衣を与えて大切にします。さて、今日の聖書の箇所では、カインに妻が与えられます。エノクと言う息子が与えられます。カインは町を建てることができました。そうして、エノクはイラレドが生れ、イラレドにはメフヤエルが生れ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生れました。6代の子孫を得ることさえできました。そして、その6代目のレメクは2人の妻を得ました。一人はアダといい、もう一人はツィラといいました。アダはヤバルを産みました。ヤバルは、家畜を飼い、天幕に住む者となりました。そして、その山羊など小家畜を飼育する半遊牧民の先祖となりました。ヤダの2番目の息子はユバルトいいました。ユバルは竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となりました。音楽・芸能の先祖ですね。2人目の妻ツィラもトバル・カインを産みました。彼は青銅や鉄で様々な道具を作る鍛冶屋の先祖となりました。カインの子孫は文明・文化の発祥となりました。トバルカインには妹もおりました。 殺人犯カインとその家族、子孫はどうでしょうか。神から呪われたでしょうか。妻が与えられ、6代も子孫が続き、しかも、人類の牧畜、芸能、製造業など文明や文化を、創造し、そして、享受できた家族、子孫であったと思われます。何とも恵まれた境遇にありましょうか。神様はカインとその子孫は呪ってはいません。物質的な祝福の中に置かれています。 レメクが自分に被害を与えるものには復讐が無制限に与えられるであろう、と思われるくらいに、何不自由なくできていったのでしょう。これは神様からの恵みとしか思われません。レメクが妻たちに言ったことばを見てみましょう。 「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が7倍なら、レメクのためには七十七倍。」と。かなりの自信があり、政治的な力もあったのでしょうね。歯向かうやつは殺してしまう、徹底的な軍事力を持って、敵を支配できたようです。 神はカインとその子孫をそういう状況にさせたのでしょう。これは呪いではありません。神様からの祝福を受けているものと思います。神が祝福した男女にいった言葉「産めよ、増えよ、地に満ちて、地を従わせよ」(創世記1:28)。をそのまま実現しているのですから。現代人が望んでも望んでもできないことをカインの子孫は得たのです。 さて、アダムとエバはどうなったかというと、長男カインが次男アベルを殺してしまったという両親にあって、神はとがめることなく、子孫を与えました。カインがアベルを殺したので、その代わりに授け(シャト)られたセトという息子が与えられました。神様はアダムとエバも祝福されているように思います。セトにも子どもができました。その名前はエノシュと言いました。エノシュというのは「弱い死すべき人間」という意味なそうです。 エノシュ・・・まさしく人間の本質を現している名ですね。弱くて死すべき人間・・・ しかし、そういう人間を神はそのままにされません。わたしたちがくらしていくために必要な糧を、食べ物や着るもの、住まい、神と混える天幕、憩いを与える芸能、文明・文化を提供してくれながら、共同体形成をなしてくださっていることがわかります。 共同体は神が創るものだと言う事です。 しかし、人間が自己中心的であれば、その共同体はどうなっていくでしょうか。 レメクの言葉にあるように、報復、復讐の殺し合いの絶えない共同体になってくでしょう。 現代社会がそうなのだと思います。 では、 平和な共同体にするにはどうしたらよいでしょうか。 マタイによる福音書18:21,22節をお読みしましょう。 そのときペテロがイエスのところに来て言った「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したらなら、何回するすべきでありましょうか。7回まででしょうか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。7回ところか、7の70倍までも赦しなさい」 レメクは7の70倍まで復讐するといいました。 イエスは7の70倍まで赦せといいました。 わたしたちは、この、ことばのどちらを取っていきますか。 神が共同体を作って下さっています。それなら、赦し合う方を取るのが、筋というものではありませんか。共同体は神が作る、だから、赦し合え、そういう神の叫びが、聞こえてくるように思われます。現代の自己中心的で、報復し合っている世の中にいて、自ら、濡れ衣を着せられ、十字架につけられた、神、イエスの叫び、「わたしがしたように赦し合え」 そういう叫びを聞くもの、それがわたしたちキリスト者ではありませんか。 今日の聖書の創世記の箇所と合わせますと、「共同体は神が作る、だから、赦し合え」 そういうメッセージを聞くものです。願わくは私たちが赦しあう事ができ、殺し合わない、話し合いがしっかりできる、平和な共同体を造っていきたいと思います。