平和な共同体形成の心得・・・ねたまない

旧約聖書から平和な共同体形成の心得を学ぼうと読んでおりますが、本日は創世記4章、カインとアベルのお話です。
カインとアベルはアダムとエバの子どもです。アダムとエバは、神様からの約束「善悪を知る木から木の実を食べるなという約束」を破ってしまった親です。神の言いつけを守らなかった親の子どもたち。エバは、カインが生まれたとき、「わたしは主によって男子を得た」と語ったと書かれています。ここの「主によって」ということばは訳が難しいそうです。エバはとれもうれしかったのではないでしょうか。エバはまるで自分が神様になったかのように、思ったのではないかというふうにわたしは解釈します。よろこんだエバはアベルも産みます。兄弟2人、人類初の人間の子たち。
さて、彼らがやったことは、なんだったのでしょうか。
聖書に記されてる事でなされたことは、なんということでしょう。兄が弟を殺すという、殺人だったのです。

この殺人を引き起こした原因は何か本日の聖書をみますと、ねたみなのですね。
さて、このねたみ、どうして生じたか見てみましょう。

アベルは羊を飼うものとなり、カインは土を耕す者となりました。牧畜と農業ですね。時を経て、カインは土の実りを主の元に捧げ物として持って来ました。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来ました。主はアベルとその捧げ物に目を留められたが、カインとその捧げ物には目を留められなかった。とあります。カインは激しく怒って顔を伏せた。とあります。
唯一の神様から目を留められなかったら、わたしは本当に辛いでしょう。もううつになってしな垂れてしまいます。わたしは多くの罪を犯すものですから・・・
しかし、カインは怒るんですね。きっと、彼は何も自分には非がない、それなのに、なぜ、
主は自分を顧みないのか、自分のささげ物を受け取らないのか、と思ったのだと思います。

「自分が正しいのに認められない。認めてもらいたい人に認められない。自分が愛している人に認めてもらえない。二人いたら自分だけ認めてもらえない」
このような場合、怒りが増すのでしょうね。カインはかなり、自信があったし、カイン野名前は「産む、作る、創造する」などの意味があったようで、喜びの中で、期待されて育てられていたのかもしれません。一方アベルは「息、儚い、空虚、無意味、無価値、虚無」というような意味があったようです。主は弱い弟のアベル、儚い、無意味の名前の方のアベルとアベルの捧げ物にへを止められました。兄の方は弟より名前からして、アダムやエバからも祝福を弟より多く受けていたかもしれませんね。お兄さんと言うことで・・・
ところが主はそのプライドをことごとく折るようなことをされたのです。

なんであんな名前の弟に目を留めるのだ、とねたみ、そんなバカな事があってはならないと、怒り狂うのでした。その気持ち分からなくもありませんが、そのことによって、カインはアベルを殺してしまいます。

その前に神の忠告がアベルになされます。
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないならば、罪は戸口で待ち伏せしており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

「罪は戸口で待ち伏せしており、お前を求める。お前はそれを支配しなければならない。」

主の的確なアドバイスはここです。罪は戸口で待ち伏せしている、と語ります。罪、これは、ねたみによる殺人、ということでしょう。これが戸口で待っている、というのは、これからカインがし始める歩みの始めに待ち構えてる、ということです。人間の行動の動機として罪があるのだ、その罪を支配しなければならない、ということを語っています。
罪を支配する事。これを人間に主は求められました。アダムとイブの初子、カインに求めました。しかし、カインは罪を支配することができません。ねたみと殺意に逆に支配されてしまいました。

 カインは弟アベルにことばをかけ、二人が野原に着いた時、カインは弟アベルを襲って殺してしまいました。兄弟とは、かくもねたみ合い、殺し合うものなのでしょうか。わたしには兄弟がいませんから、そのようなねたみを理解する事ができません。しかし、小さい頃、2歳年下の従兄弟と一緒に暮していました。その従兄弟女の子だったのですが、小学校2年生の時、私が小学校4年生の時、隣に家を建てて、引っ越していったのですが、その暮れのクリスマスの時、ケーキを2けんぶん買ってきました。となりの家の分とわたしの家の分ですね。大きい方が家なんです。5人家族ですから。小さい方が従兄弟のケーキです。3人家族ですから。そしてクリスマスの夜。ケーキを食べよう。と開けて見たところ、なんか小さい。あれ?こんな小さいの5人で食べたら、ほんのちょっとだ。と思ったわけです。ドバ-ッとこう、見るからに食べきれないと思うくらい大きいやつなはずだ。あっ!これは間違って、従兄弟の家の小さいケーキとうちの大きいケーキと間違えたんだ。
と思って、従兄弟の家に早速いってみたんです。そうしたら、もう半分近くケーキが食べられていたのです。そのとき、わたしは従兄弟の家の前で怒ったように覚えています。「そいづあおらえの物なんだ。何で食ったんだ。何で食ったんだ。」その歳のクリスマスは台無しでした。従兄弟のうちでは大きなケーキの祝福を神様からの祝福のように思ってたかもしれません。それをわたしはうらやんでというか、恨んで、従兄弟の幸いを踏みにじってしまう、そういう、殺意にも似た思いでいたようにも今考えれば思うのです。

そう、思うと、カインと自分を重ねることができるように思います。

主はその後カインに問いただします。
「お前の弟アベルは、どこにいるのか」
カインは答えます。
「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」
これは神とアベルへの皮肉です。アベルは羊飼い、羊の番人でしたから、自分はアベルとは関係ないということを強調したかのようです。
主は言われます。
「何と言うことをしたのか。お前の弟の血が主の中から私に向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも尚、呪われる。土を耕しても土はもはやお前のために作物を生み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」
カインは主に言った。
「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と語ります。

アダムもエバもそうでしたが、カインも、自分のした罪深さを知りながら、神様、ごめんなさい、赦してください、とは言わないのですね。カインは死す事、いや、自分が殺される事を知り、それを引き受けてきる事を辞さない。信に自己責任に立っている生き方、神なしの生き方を引き受けていくように思います。それは、私から見てとても頼もしいように思います。他人様の世話にはなりませぬ、己は己が責任を負います。まさしく人が神に似せて造られた、ことが分かります。神無しでは自分が神の如くになって生きるしかない。
アダムやエバ、カインはそのような生き方を選んだのではないでしょうか。神が世話をする、導くというのを否定して、自分の生き方を追及し、自己選択、自己責任でよろしい、という生き方。それは今でも人々に認められ、人々が求めている生き方でもあるように思います。実に人の目には良いように見える生き方。

しかし、聖書はそれでは人は生きることはできないと、創世記から黙示録に渡って語っているのです。神の関わり、神の愛が、たとえ、いらないと否定されても、ないと信じていても、神に背き、神を憎み、神を滅ぼそうとしても、そのような者であろうとも、そのようなものであるからこそ、なお更、その生を慈しみ、生を大切に守ってくれ、、みちびてくれ、祝福してくださるありよう、それが、神なのでしょうが、主が必要だと言う事を語っているのではないでしょうか。イエスの十字架と復活がそれを現している出来事となっているのでしょう。

今は共同体形成について旧約聖書から学んでいますが、本日は、兄弟が共同体としてあるいは、ねたまない、ということがポイントではないかと思われます。

コリント信徒への手紙第Ⅰ13章4節前半 愛は忍強い。情け深い。ねたまない。とあります。ねたまないことは愛の一つです。神の愛の一つです。人間業ではできないことかもしれません。しかし、私たち信仰者はイエスの十字架の救いを信じ、聖霊の住まいとなっているものです。ねたみがあったとしても、ねたまないという主の業を、ねたみがあっても、悔い改める業をわたしたちは行うことができる道を知っており、歩んでいるものではありませんか。主イエス十字架を見上げ、自分の所属する共同体で生じるねたみに気づき、悔い改めていきましょう。そのとき、祝福された共同体になっていくことを見、主への喜びと感謝に満ちる事でしょう。