創世記は読んで言って面白いですが、解釈にはとても苦しみます。 ある牧師は、創世記はその解釈が難しく、格闘しているということです。そして、創世記はわれわれに宇宙とはどういう物か、太陽や月、海や陸、植物や動物の存在意義、人間の存在意義、結婚の意味などを、問っている書であると語っていました。 男と女について書かれていますが、とても強い結びつきなのでしょうか。 男と女は違いがとても大きいように思います。体の構造からして違いますし、思考過程も全く違っていて、とても、一緒にやっていくことができないと思うことあると思います。 しかし、神は男と女を一体になるように造られたとあります。 一体となって永遠に生きる者として造られたのでした。中央の善悪を知る木の実を食べてはならない、とされる決まりを守るという条件で。 ここでは、人というのは、独りではなく、妻や誰かと一体となって生きるべき存在として描かれているように思われます。 夫婦にしても、親子にしても、友人にしても、一体となる、関係がある。愛するということで連帯し合うことが神の業として、人間の業(人はそれを出来るだけ壊さない)として与えれている。与えられたことを守り、さらに少しでも良いようにしていくようにということでしょうか。 さて、この助けてはどのようにして与えられるのでしょうか。 アダムを深い眠りに落とされ、アダムのあばら骨から1部を取って、 そこからエバを造りました。アダムは全く関与していません。 一方的に与えられた神からの恵みとして、助け手が与えられました。 人は神から愛されるために創造され、生まれてきた。 愛する神がいつも一緒だ。助け手、救い手になってくれる。 そして、もちろん、人とも愛し合うようになって、もらいたいと神は思っている。 わたしたちの究極目標は神と愛し合い、人と愛し合うということ、 そのうち、神はわたし達を愛するということは完璧にできています。 わたし達は、残された、神を愛する事と人々と愛し合って行く道が残されているといいうわけです。 結婚というのは聖書の創世記、ヨハネの黙示録にもありますように、完成されたイメージを与えられます。人生の究極の目的であるかのようです。 しかし、現実は結婚しても問題が多く、高校の時に読んだ伊藤整の「恋愛について」を読むだときは99%の人が離婚を考えたと言われています。 結婚は祝福されるべき喜ばしいものであるにも関わらず、何か人生の重荷のような印象を受けます。パウロも、主を信じる者として、独身を進めています。 自分の意見として、主と共にあることを覚えて、世の終わりが近いことを考えると、どうすれば妻や夫を喜ばせることができるか、世のことに心を遣い、苦労を負わせたくないので、一人の方が良いと進めています。 現代では、彼氏も彼女も作らず、結婚もしたがらない若い人も増えています。互いに気を使って面倒だという事のらしいです。自分の思い通りの生き方をすることでは、他人がじゃまになることがありますね。 先進国では少子高齢化となって、結婚しないと子どもが出来ないという心配をしているわけです。社会維持のための結婚政策が 成されている様にも思え、何か違和感を覚えるのです。 さて、結婚は何の為にするのでしょうか? 社会の要請に答えるためでしょうか? 子どもを増やすためでしょうか? お互い幸せになるためでしょうか? 結婚は、アダムに、人が一人でいるのはよくない、助けるものを作ろうといってなされたものでした。アダム独りではよくないと思ったのですね。助け合って生きることが人間には大切だ。だから、エバを造ったのだと思われます。決して社会の要請や、子どもを増やすために結婚したのではありません。極端なことを言えば、神様の啓示で結婚させられた、ということになると思います。 そして、さらに、このアダムとイブの結婚は、ちょと特別な結婚でした。人類初の結婚でした。しかも、神が創ったカップルが、1組だけで、それ以外は造らなかったということです。ということは、アダムとイブがユダ人だけの先祖ではなく、すべての民族、人種、宗教が異なっていてもすべて同じご先祖様だということです。キリスト教もユダヤ教もイスラム教も仏教も神道の方々も元をたどればアダムとイブに到着する。同性愛者も異性愛者も、今、地球上に生きている者は、すべて、同じご先祖さまだったということが示されています。アダムとイブの話はここに大きな価値があると思われます。キリスト教徒は人類みな同じ先祖を持つ親類だという気持ちのある方なのだと思います。 アダムとイブの話は、ここに大きな重要性があると思っています。 そして、アダムとイブが結婚した事柄、意義はそれ以外の方々の結婚にも、受け継がれている尊いものなのだと思う訳です。人が独りでいるのはよくない、助ける者を造ろう。 結婚には、そういう神のご配慮があるということを思いおこすべきだと思います。 結婚は、神の業であって、自分の幸福を第一に目的とするものではないように思います。 神様が、エデンの園を耕し守る仕事をアダムに与えたように、 神様からの命令を行っていくときに、必要なときに、神様が、助け手として与えられるものだとわたしは思います。 ですから、わたしたちは、神から与えられている人への要求、律法を守っていくようにつとめていくようにしていきたいと思います。 結婚とは、自ら結婚する事を目的に行うことではなく、神様から委託された業を行っていくときに、神様から与えられる恵みだと思った方がよさそうです。 「人が一人でいるのはよくない」と言われました。さて、結婚しない者はよくないのでしょうか。それは、どうも違うように思います。福音書やパウロの書簡でも独身でもいい、独身の方がいいとさえ、語っています。 マタイによる福音書19章11節 「だれもがこのことばを受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生れついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいるこれをうけいれることのできるひとは受け入れなさい」 ヨハネによる福音書14章18節 わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。 コリントの信徒への手紙 第一7章 結婚について 独身のすすめ 情欲に身を焦がすよりは結婚する方がましだからです。 人が一人でいることがよくないのであって、助け手が必要だということだと思います。 その助けては妻でなければいけないか、ということになりますが、それは、違うでしょう。妻が助け手になることもあるでしょうし、女性からみれば夫が助け手となることもありましょう。また、友達が助け手となる場合もあります。人と人が互いに助け合って生きなさいということではないでしょうか。わたしの名によって、2人、3人が集まるばところにはわたしもいるのである」といって下さっています。創世記の場合は、人類の祖先となったわけですから、男と女ということで、神が、たまたま、定めたのだと思います。同性愛者では、このときは都合が悪かったわけで、異性愛者としたわけです。人類の始祖になるためにです。 イエスはわたし達の友となってくださったし、みなしごにはしない、聖霊となって私たちと共にいてくださると語ってくださっています。 一人でいるのはよくないと思い、神は我々に、この自然界のよきものをお与えになりました。人にも、選択肢の一つとしての結婚という恵みを与えてくださいました。 我々人間はそういうことに気づいているでしょうか。全くといっていいほど気づいていません。また、暮らしの中でも人が幸いに過ごせるように十戒をはじめ,律法を与えましたが、それを正しく理解し、実行できませんでした。神の子、神イエスの時代、イエスはその人の罪を負い、十字架につけられて死にました。神の恵みをことごく無視し、続ける人間。どこに行くべきか道を失った人間たち。これでは、神の与えたもう、自然や結婚も台無しになっていってもおかしくありません。 そういう罪人であっても、イエスは私たちを愛することを辞めません。最終的にはわたしたち人類や自然が滅びないように、聖書や啓示を通して、今の現実の世に対しては、愛することの重要性、神の愛を少しでも実践していくことで、生き残れる道、真理、命を与え維持できると教えて下さっています。それを否定され、人々の愛が冷えて、自然が壊されても。天体が破壊されでも、神が新天新地を造って、与える、ということまで語っているのです。実にイエスはよきものを与えたもう神。 この神が共に自分一人一人といてくださることを思うとき、結婚することにも過分の恵みを感じ、また、結婚しなくても、同様の恵みを受けているという思いにいたります。 そして、主が命じている互いに愛し合いなさい、を実践していこうと思い、また、そうできななじ自分を悔い改め、ただただ、主の憐れみを覚えるものです。 祈ります。 エフェソ信徒への手紙5章30節~32節 それ故、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。 マタイによる福音書19章11節 「だれもがこのことばを受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生れついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいるこれをうけいれることのできるひとは受け入れなさい」 ヨハネによる福音書14章18節 わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。 コリントの信徒への手紙 第一7章 結婚について 独身のすすめ 情欲に身を焦がすよりは結婚する方がましだからです。 ヨハネの黙示録 14章 14万4000人の歌 ヨハネの黙示録 22章17節 “霊”と花嫁は言う。「来てください」 友となるイエス 慈しみ深き 聖書は? カナの結婚 人が独りでいるのは良くない。 助けるものを造ろう。 結婚できていない 光と闇 大空と水 地海草 太陽星月 魚鳥 動物、人 安息日 助ける者、助け合う存在として人を作った。 生殖活動ではない。 それは神でもからなり難儀したものであった。 結婚というのは神の業であって、人の業ではない。 神の業であるから、神の自由意志によって結婚が決まる。 天地創造と同じレベルの偉大な話である。 子を産むより、結婚の方が難しいような感じだ。 ―結婚― 神から与えられた特別の業である。 男と女がそこではっきり意義付けられる。 男と女の結婚は神からの業、神の創造の業とされている。 エフェソ 妻と夫 キリストに対する恐れをもって互いに仕え合いなさい。 一人の人はよくないのでは? 結婚は人が生きていく上でとても重要な事柄だと思います。 聖書の創世記に出て来るくらい、重要な事柄でありましょう。 天地を創造なさった奇跡に等しい話なのです。 聖書の中にも出てきますように、カナの婚礼でイエスは、婚礼がうまくいくように水を葡萄酒に替えました。 エフェソの手紙の中でも結婚は神秘は偉大だと話されています。 夫婦をキリストと教会にたとえ、教会の頭がキリスト、夫婦の頭が夫、妻は夫に仕える者とされています。夫は妻を愛するものとされています。 結婚というのは、夫に妻は頭として従い、夫は妻を愛するという関係、それは神の創造の業でありましょう。 また、生きている間のことで復活した場合は天使のような存在に我々はなるというのです。 (28) すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」 (29) イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。 (30) 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 (31) 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。 (32) 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」 (33) 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。 一方、独身がよいというパウロの意見もあります。 イエスのことばには結婚は素晴らしいものであると言っていると同時に、恵まれた者だけが、結婚できなかったり、しなかったり、することを受け入れよ。と言ってもいるのです。 ヨハネの福音書15章14-15節 わたしの命じることを行うならば、もはやわたしはあなたがたを僕と呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしあなたがたを「友」と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 ヨハネの黙示録 19章5節~9節 子羊の婚宴、 21章2節 更にわたしは、聖なる都新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から降ってくるのを見た。 22章17節 “霊”と花嫁は言う。「来てください」 結婚ということは、祝福されたものでありますが、この結婚というものは、一人対一人の結婚を指していたり、結婚できる血族的範囲が決められています。他人の妻を姦淫したり、近親者と夫婦になることは禁止されています。結婚と性行為は違うものだと思われます。結婚したものだけに認められる行為です。結婚していても生理中の性行為は禁止されています。