エズラ記1章1~11節
マタイによる福音書11章25~29節  
平和の共同体の心得「抑圧からの解放」

エズラ記に入りました。エズラは祭司でエズラ記に登場する人物です。イスラエルの民はバビロニア帝国に、信仰のよりどころとなっていたエルサレムの神殿を破壊され、支配され、捕囚民となっていましたが、ペルシャの王キュロスがバビロニアを征服し、イスラエルの民を捕囚から解放し、エルサレム神殿の再建、イスラエルの民の信仰を認めてもらえることになりました。この記事は先週の歴代誌下の終わりにも出ていました。2度も同じ記事があるということは、ここが、イスラエルの歴史にとても重要だということを示すものではないでしょうか。他国へ依存しなければやっていけない小国の生き方をここで示しているのではないでしょうか?神の御心とは大きな国家にはなるな、小さな国家で力ある国に依存して生きよ、神はそれを支援し、成し遂げるということを私たちにここで示しているのではないでしょうか?

本日のマタイによる福音書には「すべて重荷を負って苦労しているものは私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」というイエスの言葉があります。人は何かをなそう、こうあるべきだ、
もっと大きくなろうとしたときに重荷を負い、苦労するものでしょう。更に他者に支配され、命令されたり、強制されたりすれば苦労というより苦痛になったりします。イエスはそういう生き方を望みません。イエスはどういう生き方を望むかというと「幼子のような生き方」だと思います。本日のマタイの福音書にも神様の御心を「知恵ある者や賢いものに隠して、幼子たちに示されました」とあります。イエスは幼子から生き方を学べとでも言っているようです。幼子は周囲の人々に依存して生きるしかありません。幼子はそれを喜んで受け、感謝して生きているように私には感じ取れます。そういう生き方をせよ、とイエスは語っているように思います。

今日のメッセージの題は抑圧からの解放です。国(組織)にせよ、個人にせよ、私たちは自分の力で自立することを良しとして、他者を助けたり、他者を生かす国(組織)や個人を目指しているのではないでしょうか?聖書を読むとそれらはまちがっていると気づかされます。聖書からみれば、国(組織)や個人は他者から助けてもらう小さなありようが望ましいと語ってくれているように思います。そうなることで私たちは、こうならねばならないなどという抑圧から解放され、幼子のような自由を得、喜び感謝して生きていけるような気がします。

皆様の祝福を祈ります。