聖書 歴代誌下33章1~25節(旧約p715))
マルコによる福音書14章66~74節(新約p94)
説教 平和の共同体の心得「人は神を信じられないのか?」
歴代誌には、神を裏切る王やイスラルの民が描かれています。実にユダ王国の20人の王のうち4人だけが神に従った王でその他の14人は神に背いた王として描かれています。本日の歴代誌下33章に出てくるマナセ、アモンも神に背いた王として登場しています。本日の新約聖書のマルコの福音書でもイエスの愛弟子ペトロの裏切りが描かれています。聖書には旧約聖書、新約聖書とも大雑把にみると、人に命を与え、守ってくれる神への背信について描かれているように思います。別の言い方をすれば、裏切り者を生かす神を描いているように思います。人間ならば赦しておけない人を赦す神。十字架にかけられたイエスはまさに救い主の神イエスを不条理にも人が葬った出来事でした。亡霊として人を呪うために復活してもよかったようですが、これまた、人を救うために復活したイエス。「あなた方に平和があるように」と復活したイエスはこの言葉を私たちに示しています(ヨハネによる福音書20章26節)。そう言われていながら現に生きている私たちはイエスの言うことを聞き入れているのかどうか考えてみますと、どうでありましょう?
先日、気仙沼集会のクリスマスに仙台北教会からいらしてくださった北博さん(東北学院大学教授、旧約学)から頂いた川端純四郎著「教会と戦争~仙台東三番丁教会の場合~」(東北学院大学論集 教会と神学第52号2011.3)を読みました。第二次世界大戦中、日本のプロテスタント教会は政府によって一つにされ、天皇は神とされ、礼拝の前に「国民儀礼」を強制されました。「国民儀礼」というのは、1937年に政府が決定したもので、日本国民はすべての集会で天皇を礼拝し(具体的には、皇居の方向に向かって最敬礼をする)、日本軍の勝利を祈願することを義務付けたものです。このことをすること自体、十戒違反です。「大東亜共栄圏の歌」も賛美歌として歌っていたというのです。川端純四郎さんは父親が牧師。当時「国民儀礼」などの経験者だったのです。信仰者の中には天皇を礼拝することを拒み投獄されるものも小数ですがありました。多くは強権的なファシズム勢力に「服従」し、川端さんの父親も「服従」したというのです。これは仕方ないと私は思いました。ですが、私が驚いたのは次の文章を読んでです。
しかし、他方では、このような父の歩みをたどるうちに、私の中に、言いようのない大きな疑問が生まれてくるのをおさえることができませんでした。それは、このような父の歩みは、本当に「服従」だったのだろうか、ということです。「天皇は神ではない。しかし、弾圧が恐ろしいので、心ならずも膝を曲げる」ということではなかったのではないかという疑問です。もちろん、私は父の信仰心を疑ったことはありません。明治生まれの典型的なピューリタンでした。ひたすら聖書を読み、熱烈に祈り、禁酒禁煙、貧困に耐えて伝道に励む信仰者でした。しかし、その父にとって、同時に「皇居遥拝」も「君が代斉唱」も「万歳三唱」も、決して「心ならずも」強制されてやむを得ず行っているのではなく「心から」進んで行っていたのではないかという疑問です。これは「服従」ではなく「自発的信従」だったのではないでしょうか。(P183)
イエスを心から礼拝し、天皇も心から礼拝するということが起こり得るのだということを知ったのです。これにはショックでした。しかし、いろいろ考えてみると、私にも当てはまることがあります。神と富に仕える事はできないとイエスに言われているのを知りながら、投資信託をして生活費を増やそうとしている私はイエスを礼拝し、金にも仕えるものではあるまいか?障碍のあるものはより多くの生活費は必要だからということで正当化していないだろうか?仕事中心になり、1月の13日の日曜日も窒息予防の研修会があり、それに出席する牧師である私は、神の国を第一に求めていることになるのだろうか。命にかかわることだから神様も赦してくれるだろうと言い訳を考えていないか?自分の思いが中心でそれを神の意志だということにしていなか?神に本当の祈りを忘れ、主の祈りをただお題目のように唱えるだけになったりしてしまっているのではないか?礼拝出席することで神に従ったことにはしていないだろうか?などいろいろな疑問がでてくるのです。「人は神を信じられないのか?」という今日のタイトルです。こういうときは歎異抄のこの言葉を思い出します。「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」。イエスも罪人を救うために来たということから考えれば、信じていなくても救われるのだろうと私は思います。しかし、それでも、私たちの暮らし方、生き方はこれでよいのかという疑問は残ったままです。復活のイエスは私たちに「あなた方に平和があるように」と語っています。そうなると、やっぱり、平和な暮らしを目指すことは忘れることはできませんね。というより、人の良心といいましょうか、本能といいましょうか、そういう根源的なレベルで平和は求められているように思います。
新年初のメッセージでした。本年もよろしくお願いいたします。
みなさんの祝福をお祈りいたします。