聖書 歴代誌下28章1~27節、ルカによる福音書1章46~80節

説教 平和の共同体の心得「いや、やっぱり、救いはある」

ときどき、もうだめかと思っていても何とか生きてこれたと私は思っています。これは奇跡、救いの奇跡的ありようではないかと最近思っています。

ハラスメント、これは、暴力とか破壊、嫌がらせや虐め、虐待をいいます。そして、昨今において、セクハラ、パワハラ、モラハラなど性的な支配、権力的支配、精神的支配によって人を悩ませたり、混乱させたり、果ては死にまで追いやったりするようなことが生じているようです。ハラスメントは悪魔の名なのではないかと思っています。

このハラスメント、現代だけかと思いきや、そうではないようです。旧約聖書を読むむとハラスメントだらけの世であることがよくわかります。本日の歴代誌下28章に主に背いたユダの王アハズのことが書かれています。バアルの神に仕えて、家の繁栄のために自分の子どもを火あぶりの生贄と捧げる忌むべき、破壊的な慣習に習ったり、いろいろな生贄を捧げたりしていました。人の犠牲、生きることへの抑圧が暮らしの中にあり、ハラスメントが常識のようになっていたようです。もちろん、他国や民族の対立や争い、暴力事件はしょっちゅう生じていて、旧約聖書では神の名を借りて殺害さえ行われています。「主から離れた」とか「主の教えに背いた」という理由でです。本日のアハズも神から罰せられるはずです。しかし、9節から15節には、北イスラエルに負けたユダの捕虜が、預言者オデドを通して語られた主の言葉で解放されることが書かれているのです。聖書記者はこの解放の言い伝えを採用しました。神の業を入れざるを得ないくらい、ここは強く言い伝えられていたのでしょう。アハズ自身は16年の在位がありましたが、36歳で没。これを聖書は主が打ったことにしていますが、自業自得の結果ではなかったかと思います。主はハラスメントはしないが私の信仰です。

本日のルカによる福音書の1か所にはマリアの賛歌があり、主は身分低い自分に目を留めてくださったと告白し、憐れみを忘れないと語ります。もう1か所の洗礼者ヨハネの誕生については、名前を付けようとしたとき、慣習に従って父の名「ザカリア」と名付けようと人々はしますが、主の命名ヨハネと両親はしました。すると口が利けなくなっていた父ザカリアの口が開き、自由に話せるようになったというのです。ここで、主は命が自由に向うようにしてくれるということでしょう。これが救いだと私は思います。

ハラスメントは人が自由に生きることを阻害し、人を抑圧します。過去から現在まで世の中は抑圧だらけで息の詰まる閉塞状態ではないでしょうか?この世に救いなどない、と思うのも分かります。しかし、そうではないと本日の聖書からも分かります。主は抑圧から解放し、
慈しみだらけにし、命を事由に向かわせてくれているということ、
閉塞状態から脱出させてくれているということ、そういうことを私たちにしてくれているということです。

ハラスメントは主によって克服された!
だから、今、救われていないような現状にあっても、「いや、やっぱっり、救いはある」と言いたいのです。
私は過去何度ももうだめだと思いながら不思議に生きてこれたのは主の救いがあったからなのかと思っています。


みなさまの祝福を祈ります。