聖書 歴代誌下22章1~23章21
マルコによる福音書3章20~30節
説教 平和の共同体の心得「自分の聖霊に頼る」

先日、気仙沼市内の小学校統合問題が地元紙で取り上げられていました。教育委員会は統合を進め、地域住民の一部が反対をしています。住民への説明がうまくできないようです。義務教育の今の最大の問題はいじめ、不登校、自殺だと思います。その根本原因の解明や対策に教育委員会がどれだけ力を入れてきたかは分かりませんが、あまりしてきていないように思います。その付けでもあるように思います。こうした物事がうまくいかない状況は日常茶飯事のように思います。

本日の聖書にはこの世のうまくいかない出来事について示されています。歴代誌下22章23章にはユダの王アハズヤとその母アタルヤの悪政について書かれています。アタルヤはそもそもユダ側の人ではなく、北イスラエルの王暴君アハブの娘でした。アタルヤはユダの王ヨラムの妻でアハズヤの母です。アタルヤの夫のヨラムが亡くなると息子の王アハズヤに吹聴し、アハブのような悪政をさせますが、アハズヤが殺害されると母のアタルヤがユダの女王となります。このとき、ユダのダビデ家を立とうとし、王族をすべて殺害しようとします。自分の孫たちも命を奪われていきますが、アタルヤの娘にあたるヨシュバがアタルヤの孫息子ヨアシュをなんとか助け出し、ダビデ家は奇跡的に存続していくことになります。アタルヤはその後ヨアシュを助けたヨシュバの夫祭司のおこすクーデダーで殺害されます。なんとも複雑で殺伐とした事柄が描かれていますが、編集者はダビデ王朝が国外も国内も残虐で非情な状況にも生き残っていく様子を描いているようです。なぜならば、ダビデの子孫を神は祝福し、ダビデの子孫が永久に王となることが神から語られている(サムエル記下7章、歴代誌上17章)と旧約聖書編集者特に歴代誌編集者の思想にあったからだと思われます。 

本日のマルコによる福音書には、ガリラヤ湖畔で、イエスが弟子の家に帰ってきて、群衆が集まっていた時の出来事が記されています。そこに身内の人もいました。周囲から気が変になっていると言われ、身内の人がイエスを取り押さえに来ました。また、そこにいた、エルサレムからやってきた正統派ユダヤ教律法学者は、イエスの悪霊払いについて「悪霊に取り付かれ、悪霊の頭によって悪霊を追い出している」と決めつけ、イエの活動を止めさせようとしたりしていました。そこでイエスは次ように言います。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じようにサタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、強い人を縛り上げなければ、だれも、その家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず、縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが侵すどんな罪やどんな冒涜の言葉も赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」

ここは分かりにくい返答ですが、著者マルコは、「イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取り付かれている』と人々が言ったからである」と解説をつけています。つまり、ここは、イエスは悪霊に取り付かれてはいないということを、内輪もめすれば国も家もサタンも滅び、そもそもサタンは存在せず、サタンがサタンを追い出すことは有り得ず、イエスはサタンではないと語っていると思われます。そして、イエスに宿っている聖霊は冒瀆できず、汚すことはできないということも語っているのではないかと私は捉えています。

ここから、私は、この世で人間が罪の責めを負わず自由にいきることができるのは、聖霊によるのではないかという思いに至ります。旧約聖書ではエルサレム神殿を中心として神の律法を守るダビデの子孫の王国を作ることが理想社会であったのでしょう。しかし、現実は残虐に満ちた歴史です。今日の歴代誌も家族内、国家内での暴力的応酬があり、ダビデの子孫の王国では、人々が罪の責めを負わず、自由に生き、平和を実現できはしないと思わざるを得ません。こうしてみると、この世の社会を平和にここが自由に、みんなとうまくいかせるのは、聖霊のみなのではないのでしょうか。聖霊は一人一人の体に宿ります(コリント信徒への手紙第一6章19節)。この世の社会をうまくいくようにするには一人一人が自分に宿っている聖霊に聞くこと、これかなあと思いました。それで今日のタイトルは「自分の聖霊に頼る」となりました。本日も神秘的な話で失礼しました。

みなさんの祝福を祈ります。