聖書 歴代誌下14章1~14節
ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節
説教 平和の共同体の心得「信仰による平和」

安倍首相などが考えている抑止力による平和。それには核兵器とか核兵器より強力な破壊装置を用意しなければなりません。これって戦争は防げるかもしれませんが、人々が脅し合いで黙っている状態で、そういう世界にいたいとは私は思えませんね。非暴力、非戦で平和を築きたいと私は思います。友として支え合うような社会や国家になっていくのが望ましいと思います。
 私たち信仰者は、どうやって平和を築いていったらよいかと考えるものです。安保関連法案が国会で審議されているときには廃案運動を繰り広げたり、憲法9条を守るように運動をしたり、社会う運動で平和を実現していきたいものだと思ったりもしています。
 本日の歴代誌下には「主が安らぎを与えられたので、その時代、この地は平穏で戦争がなかった」という個所があります。この時代戦争は避けては通れない状態であったので、人々の力によって平和は築けないという思想と主から平和は与えられるという思想は信仰によるものと言えるでしょう。また、ガラテヤの信徒への手紙2章16節には「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」とあります。自分が神から正しい者と認められるためには、行いではなく信仰だというのです。イエス・キリストの十字架で罪赦されたと信じることで正しい人間とされるというのです。これを発見したパウロは嬉しかったと思います。発見したといっても聖霊(神の霊)に示されて分かったのでしょうけど。
 信仰による義があるなら、信仰による平和もあっていいとふと思いました。ガラテヤの手紙5章2節には霊の結ぶ実に「平和」があり、霊的なものが信仰ですから、信仰による平和がありうることも考えられます。
では、いったい、信仰による平和とはどういうことなのでしょうか?おそらく、これは、非暴力、非戦の思想を持ち、尚且つ、実践し、十字架にかけられたイエスを神として、救い主として信じる信仰のことをいうのだと私は思います。まあ、これで、本当に世界に平和がくるのかと疑いたくなりますよね。
風が吹けば桶屋が儲かるという諺があります。ある事象の発生により、一見すると全く関係がないと思われる事柄に影響が及ぶことのたとえです。イエスを救世主と信じることと平和は結び付くこととは一見考えられませんが、私は結び付くと思っています。神秘的な話ですから、理論展開ができませんことをお詫び申し訳ございません。

みなさまの祝福を祈ります。