聖書 ヨブ記42章7~16節
   マルコによる福音書4章26~29節
説教 平和の共同体の心得「神自身が変わる」

さて、本日でヨブ記を終えます。キリスト教信仰者はヨブ記の神を受け入れているのかという疑問が私には残ったままです。なぜなら、ヨブ記の神は、サタンと組み、ヨブの財産、家族、健康を奪ったからです。ヨブ記の最期に当たっては、神はヨブに謝らないのです。見舞いに来たヨブの友人の神について正しく語らなかったことについて怒り、ヨブが祈るなら、ヨブの友人4人には罰を与えないことにしよう、などと言います。私はここで神に言いたい。ヨブに謝れ、と。しかし、最後まで、何か肩透かしを食らった内容になっています。神はヨブの境遇をもとに戻し、財産も倍に増やし、子どもも7人の息子と3人の娘の計10人が与え、祝福されました。ヨブには、長寿が与えられ、子、孫、4代先まで見ることができたとあります。神ならそれくらいの賠償は当然でしょう。しかし、なぜ、神はヨブに謝らないのだろう?明らかに十戒違反の罪(ヨブの子どもたち10人の命と多くの使用人の命を奪った)を犯した神は謝罪すべきなのではないか?悔改めるべきではないか?神ならそれが赦されるとでもいうのか?こういう疑問に対し、従来の正統派キリスト教では「神なら十戒を破ってもよい」という認識であったのでしょうか。私は神がすることは十戒違反でも正当化される思想には異議を申し立てます。ヨブ記出てくる神は明らかに十戒違反。サタン、破壊神、信じてならない神だと私は言っておきたいです。 

旧約聖書には、実は、神がサタンみたいに表現されている箇所があり、それを編集者によって訂正されている箇所もあります。明らかな所はサムエル記下の24章1節と歴代誌上21章1節です。サムエル記下24章1節は「神がダビデにイスラエルの人口調査をするように誘った」とありますが、歴代誌上21章1節には「サタンがダビデにイスラエルの人口調査をするように誘った」とあり、同じ出来事の経緯のその主導者の説明で「神」と「サタン」が入れ替わっている箇所があるのです。この人口調査によりダビデは罪に定められてしまう結果になり、イスラエルに災いがくだる結果になるのです。この人口調査は軍事力に頼るダビデ王の背信(神に頼らず軍事にたよったという)と解釈されていますが。
このことから考えますと、サムエル記編集者は神がダビデに罪を犯すような誘惑をしたと解釈したのに対し、歴代誌編集者は、それはおかしい、罪に誘惑するのはサタンだ、神が罪を犯すように誘惑することはあり得ないと判断し、「神」を「サタン」と書き変えたと思われます(月本昭男2019年10月無教会研修所講義『アブラハム物語』参照)。

こういうことから、聖書についてちょっと私見を述べさせていただきますね。キリスト教の多くの方々は聖書を神の言葉だと解釈してある聖句を自分の行動基準や判断基準とすることがあります。しかし、そういう読み方で旧約聖書を読むと神から命令があったら人の命を奪ってもよいということにもなりかねません。神の命令なら殺害するのが良いことだということにさえなります。十戒を与えた神が十戒を破るという矛盾が生じてしまいます。なぜ、こういうことが起こるのか考えてみますと、聖書は神について人がその思想に基づいて書いた書物(文学書)だからだという結論に私は達しています。その方が理にかなっているように思えます。人が神について書くわけですから、自然やその時代の社会のありようなどに関わる環境や著者の神理解等に多く影響を受けて神が描かれていると思われます。つまり、聖書は神についての文学。そうであれば、聖書に神についての多様な思想が読み取れるとしてもおかしくありません。聖書に十戒を与え十戒を破る神であったとしても、著者がそういう神のイメージをもって書いたのだろうと思い、私は納得します。しかし、それは私の信じる神イメージとは異なりますけれどもですね。そういうことから聖書には神については書かれているが、人のフィルターを通して言語化されたもので神そのものを表現するには不十分で誤りもある書ということになりましょう。聖書からは神について正確に知り得ることは困難だということになりますね。

それから、私には、ヨブ記の著者はなぜヨブ記を書いたのかという疑問が湧いてきます。内村鑑三はヨブ記の価値をヨブの信仰にあると記しています(内村鑑三著『ヨブ記講演』岩波文庫』)。ヨブ記はヨブの信仰が神による財産や家族、健康を得ることではなく、神に出会うこと、それのみに満足と喜びを見出せるところにあり、そこに価値を見出し、読者に示しているのだというように言っています。私はそうはヨブ記を捉えることができません。私は、ヨブ記は神がもしこんなだったらみなさんどうお思いですかという問題提起の文学なのではないかと思っています。

イエスは旧約聖書の優れた解釈者だと思っています。本日はマルコによる福音書の4章26節から29節を記しました。「成長する種」のたとえです。神の国は土にまかれた種の如くに成長するということが書かれています。神の国って神そのものが支配する世界ですよね。ここは神自身が成長するというようにも解釈できるではないでしょうか。旧約聖書に出てくる神はどんどん成長してきましたというようにです。これは、人の神認識が成長してきたということではないでしょうか? 人の命を奪う神認識から人の命を救う神認識へと変わっていきますということなのではないでしょうか?

神は救い主です。イエスはそれを証明されたのではないでしょうか。人は神についていろいろ詮索してきた歴史が旧約聖書にあり、ヨブ記のように十戒違反を犯す神でも仕方ないと思ってきたこともありました。しかし、イエスの登場でそれは人の誤った神概念であって、神は本当は救い主でしかありえない。そう語っているように本日の聖書の個所から思わされました。

みなさまの祝福を祈ります。