聖書 ヨブ記22章1節~27章23節(旧約p803)
マタイによる福音書5章11~12節(新約p6)
説教 平和の共同体の心得 「身に覚えのない苦難にあったとき」
ヨブ記に出てくる神は、サタンと組み、無垢で正しいヨブの財産、家族、健康を奪うという苦難をヨブに与え、ヨブの信仰を試そうとします。ヨブ記を読めば読むほどこんな神はまっぴらごめんと私は思ってしまいます。
私が神を信じたのは、自分では解決できない問題に出会い、その解決を神に委ねたことから始まりました。そこで私は救われたと思い、信仰の決心ができたのです。ふしぎと言えばふしぎです。聖書を熟読して神に納得して信仰に入った訳ではありません。直観のようなものです。それで私は間に合っているわけで、そこで出会った神が私の神なのです。神とは何?と問われれば、私は私に救いの体験をもたらした神を紹介するしかありません。ですから、聖書に書かれている破壊の神やヨブ記のヨブの信仰を試すために苦難を与える神を、私は批判せざるを得ないような気がします。
本日のヨブ記を読んで思い浮かんだのが、マタイによる福音書5章11節、12節です。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。ああなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」
この個所を見れば、この世で不条理にも正しい人が苦難にさらされていることに、天では慰めを受ける希望があり、さすが、神と想えます。しかし、わたしは地上でも不条理が解消されることを神に願っています。ヨブ記にある神のようにサタンと組むなんて神様それはやめてきださいと願わずにはいられません。イエスはサタンの誘惑に遭いましたが、誘惑を断り、サタンを去らせました。
私の神は救い主イエスです。
身に覚えのない苦難に遭ったときに私は救い主イエスに私の救いを祈ります。
みなさまの祝福を祈ります。