聖書 マタイによる福音書2章1~12節 
説教 「不思議なクリスマス」

クリスマスおめでとうございます。
「クリスマスの語源は、英語の「Christ  mass」キリストのミサという意味です。このミサですが、カトリックの用語ですね。ミサ・・・これは、パンとぶどう酒を聖別して、聖体の秘蹟が行われる礼典をいいます。プロテスタントでいう聖餐式ですね。
クリスマスは語源的に、キリストの聖餐式のことを差しています。
世の中。クリスマス。クリスマスと騒いでいるのは、「聖餐式」「聖餐式」といっているようなものですね。そして、ケーキとシャンパンを用意したりしますね。これは不思議なごとです。クリスマスの人々は知らず知らずのうちに、聖餐式に預かっているように私には思えます。配産者は聖霊でしょうか?聖餐式はイエスの十字架による罪の赦しの象徴ですね。カトリックのミサの場合は罪の赦しがそこで生じることになってしまうようです。

このように、クリスマスと言うことばは、不思議な意味合いをもっているのですが、クリスマスはイエスの誕生日と言う意味で使われているのが、普通ですね。降誕祭と言ったり、聖誕祭といわれたり、聖夜といわれています。12月25日がイエスキリストの誕生日とされていますが、これも聖書からは明らかにされたものではなくて、ローマ帝国の「太陽神の誕生祭」や「農耕神への収穫祭」が、イエス・キリストの誕生祭と結びついたといわれています。当時のローマは、太陽神を崇拝する宗教が大きな力を持ち、12月25日を太陽神を祭る祝祭日としていました。そこで、初代キリスト教の指導者達が、異教徒との対立や摩擦を生むことなく、キリスト教を広めるために、12月25日をクリスマスとされたようです。冬至頃ℊがクリスマスですね。だんだんこれから日が長くなっていくという太陽神の誕生日にはなるほど、と思わされます。

クリスマスの礼拝
本日の聖書の箇所には、イエスを初めて礼拝したのは、東の国の占星術の研究者、博士らとあります。占星術はいまでいう最先端の学問だったらしいです。異国の最先端の学者・研究者が、かれらが初めてイエスを拝んだ。ユダヤ人でも家族でもなく、外国人の異教徒の人でした。

礼拝するとはどういうときか?
自分自身が平伏し、祈りたくなるような事がります。先日、私がリハビリを担当している失語症の方に、「坂本竜馬みたいいだ」と言われて、思わず、ひれ伏したくなり、その人の御足元に平伏し、お靴を差し出しました。
こういうように、私は自分の都合の良いことが起こると、平伏すんですね。これは自然とそういうふうになりますね。極端なことをいいましたら、年末ジャンボ宝くじに当たったならば、3億円とか当たりましたら、平伏すんじゃないかと思いますね。宝くじ協会にですね。連番で買わないと6億あたらないそうですね。バラで買いましたので3億当たりましたら、1億は鳴子教会へ寄付。もう一億は柴宿教会に寄付。もう一億は職場の障害者支援施設只越荘に寄付ということでなくなってしまうんですが・・・それでもたぶん、平伏すと思います。礼拝すると思います。
礼拝するということは、自分にとって、有難い事、感謝すべき事に向けられているのだと思います。霊と真理を持って礼拝しなければならないといいます。自分にとって、ありがたくないもの、感謝に値しないものは礼拝できないと思います。

学者にとって、求めることは何か?ips細胞でノーベル賞を受賞した山中伸弥教授で、とても、うれしそうでした。彼はノーベル賞をいただてノーベル財団に平伏したかもしれませんね。

人間は何を礼拝するのか。人間は自分の都合よくしてくれる人や組織を平伏し、礼拝するのではないかと思います。

東の国の学者は、イエスにその価値を見出したのでしょう。それは、旧約聖書ミカ5:1に書いてあることばでもあり、イスラエルの王が現われて、平和にする。しかも、イスラエルだけではない。全世界を平和にするというのです。ミカ書5章1節から5節をお読みしますね。「エフライムのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の仲でいと小さき者。お前の中から、私のために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。まことに主は彼らを捨て置かれる。産婦が子を産む時まで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は、イスラエルの子らの元に帰って来る。彼は立って、群れを養う。主の力、神である主の御名の威厳を持って。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなるものとなり、地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である。」とありますあら。イスラエルの王、牧者が地の果てにまでに及ぶようになり、平和が実現するというのです。

東の国の学者は、ベツレヘムにイスラエルの王が生まれ、世界中が平和になるような可能性を秘めたかたであることを、知り、確かめ、平伏したのだろうと思います。東の国の学者が、知りたかったのは、旧約聖書の平和を実現する王の誕生と占星術による星に導かれた結果だったのでしょう。東の国の学者は、それを確かめられたので、うれしくなり、礼拝を捧げられたのでした。

クリスマスのプレゼント
クリスマスに小さい子どもたちはプレゼントをもらって、サンタクロースが来てくれたといって喜んでいます。イエスキリストと言う人は、実は、わたしたちが本当に必要なものを下さるという一面もお持ちだったと思います。これは、クリスマスに限ったことではありません。毎日がそういう日であるのです。自分に必要だと思うことはなんでしょうか?
お金でしょうか? 愛でしょうか? 仕事でしょうか? 癒しでしょうか? 人間関係でしょうか? そういう必要なことはイエスさまが与えてくれているなあ、と私は思っています。たとえば、最近の例ですが、先月の聖書研究祈祷会のとき、この気仙沼集会にたくさんの人が来て、福音を聞くことが出来るように、祈ってくださいという祈りの課題が出されました。そして、祈りました。そうしたら、今日、21名の方々の礼拝を守れる事になりました。しかもこの今日の日にクリスマス礼拝ができたのは、昨日、柴宿教会のクリスマス礼拝に私が行かなくてはならなかったので、気仙沼集会のクリスマス礼拝を今日することにしたからなのです。これは,神様の業としか、思われませんね。イエス・キリストは私たちに必要なものを与えてくださいます。クリスマスにその人の望むプレゼントをすることはおかしいことではありません。

イエスキリストは私たちに必要な具体的な事柄をこれまで与えてきてくれていました。それは、私たちの暮らしの中にあって、それぞれの人で異なったものでしょう。自分の場合は何だったのか、考えてみてはいかがでしょうか。そして、これからも、私たちに必要な事を与え続けてくれる方であると思います、これは本当に有難いことです。この不思議なクリスマスのときにイエスに対する感謝の気持ちを見出し、イエスキリストに対する感謝の礼拝を捧げていきましょう。