聖書 列王記下13章14~21節(旧約p600)
マタイによる福音書15章21~28節(新約p30)
説教 平和の共同体の心得「異教でも救う」
聖書を読んでいると、信じるものは救われるという、信仰による救いはもちろんありますが、異教の信者でも救いに与っているのではないかという個所にも出あいます。本日の聖書の個所もそうです。本日の列王記には預言者エリシャが死に、墓に葬られましたが、その墓に、どこのだれかは分からない人の屍が投げ込まれたときのことが書かれています。その屍がエリシャの骨に触れると生き返り、自分の足で立ち上がったというのです。信仰することができない死人が救われるという出来事ともここは捉えることが出来ると思います。舞台は北イスラエル王国、アシュラ像が立ったままにしていた恐らく異教の信仰に染まった国民だったと思います。ここの列王記下13節に紹介されているイスラエルの王ヨアハズは「主の前に悪とされることを行い、罪を離れなかった」(列王記下13:2)とあり、明らかに異教的だったと思われます。しかし、この段階では滅ばされないでヨハアズの子ヨアシュに王位が継承され、北イスラエル王国は主に背き続けながらも続いて行きます。こういうことから考えますと、神は異教の民、罪を犯す民を裁くのではなく、救うのだということを私は聖書から読み取ります。新約聖書のマタイによる福音書の本日の個所は「カナンの女の信仰」という見出しがつけられた場所ですが、異教の女の娘の苦しみからの解放、癒しをイエスが求めに答えたという出来事が描かれています。
以上、聖書は異教の民であろうとも、神に従わない罪人であろうとも、救いの御業を現す神だということについて書かれた書物でもあると私は読みます。聖書編集者はそのような事柄をよくも聖書に入れたと思います。聖書を読んで行けば、結局どんな信仰でも、どんな人間でも救われてしまうことが分かるのですから。だったら別に自分の救いのために信仰しなくたっていいじゃない?ということにもなりますね。その通り。聖書編集者はそのことも想定しながら万人救済の記事を入れざるを得なかったのだと思います。それはなぜか。それはきっと万人救済の神に出会った人たちが聖書編集者の中にいたからだと思います。彼らは自分が救われるために信仰はしていません。彼らは救われたと思っているから信仰していたのだと思います。救われたと思ったから、神の言葉を聞き、それに従おうとしていたのだと思います。私もそのような信仰です。
みなさまの祝福を祈ります。