反逆の民の都エルサレムへのイエスの意志 マタイ23章37節から39節

律法学者たちやファリサイ派の人々をイエスは徹底的に非難したあと、ユダヤ教の中心地エルサレムについて、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた者を石で打ち殺すものよ、と呼びかけます。その人たちは、イエス様から、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、何度も集めようとしたか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
とあります。
人間とはかくも神中心になれない者なのですね。来いと言われれば、行かない。来るなと言われれば行く、など、他者の言葉を素直に聞けないのが、にんげんなのではないでしょうか。わたしの職場にも職員心得というものがありまして、
一 「はい」という素直な心を持ちましょう。
一 「すみません」という反省の心を持ちましょう。
一 「ありがとう」という感謝の心を持ちましょう。
一 「おかげさま」という謙虚な心を持ちましょう。
一 「どうしましたか」という気遣いの心を持ちましょう。
一 「そうですね」という分かり合う心を持ちましょう。
一 「させてください」という奉仕の心を持ちましょう。

こういうことが言われています。あえて言われなけ得ればできないからあるのでしょうね。
ですから、このように、相手を思いやることは、訓練しないとできないことなのだと思います。

さて、イエスは集めようとしたとありますが、イエスは集めて人をどうしようとしたんでしょうか。それは、敵をも愛するような人間を創り出していこうと思ったに違いありません。敵を愛しないとか、自分を迫害するもののために祈りなさい。というように教えられています。敵を愛する人間を作っていくことがイエスの活動だったといえましょう。当時の社会的弱者と話をし、食事をし、悪魔の産物だと言われる病気は癒やし、サタンに取り付いている方々から悪霊を追い出しました。これは、自ら自分が、すべての人を愛する神であると言うことを証明したものだと思います。
そして、権力者に対しては、過ちであると言うことは言うが、イエスの敵を愛する愛ゆえに、力で従わせるわけには行かない。自分から意思をもってイエスの許に来て欲しい、そう願ったのでした。また、人にはそういう力を備えていると信じてたのだと思います。人は必ず、イエスの許にくる。
だから、呼びかけても、応じないなら、好きなようにさせておこう、そして、敵を愛せと言うわたしの命令は保留にしておこう。しかし、人々は自分の住むところがなくなっていくところを失い、途方に暮れるかもしれない。いや、途方に暮れる。それが、神と関わりを失った人間の暮らしだ。
さて、そうしているうちに、人間は、敵を愛することや、迫害するものために祈ることが必要だと言うことを悟るようになるだろう。そのときには、また、わたしがあなたがたと一緒に敵を愛する業をなそう、そうなるまで、待っていよう。思うのです。
イエスを十字架に人間はかけてしまいました。それは敵を愛することが自分にとっては死を意味すると思ったからでしょう。
敵のために祝福を祈るなんてしたら、相手は図に乗って益々、私に媚入り、奪い、命までなくすことになるだろう。そんなのは嫌だ。と律法学者やファリサイ派の人々はおもったのでしょう。
イエスの教えは恐かった。だから、受け入れることはできなかったのだと思います。

今でも、敵を愛することなど出来ないと思っている人はたくさんいますし、クリスチャンの中にも、そんなことはできない、信仰は倫理ではない、信じればいいんだ、と自分のかってのために都合よく信仰を用いることさえないでしょうか?

イエスの信仰とは、敵を愛することを意識して、暮らすことです。
そうすることによって、おそらく、暮らしの中に、平和が訪れるでしょう。あるいは平和の方向に向かっていくことでしょう。
さて、こういうことは本当にできるのでしょうか。
私は結果はどうあれ、敵を愛すると言う意識をもって暮らすことは可能だと思います。許しと言うこともそうでしょう。祈りの中に敵を愛するようにと祈ることができるのではないでしょうか。人から馬鹿にされてもぐっとこらえる忍耐もそうでしょう。
冒頭に上げた心得を護っていこうとすることもそうでしょう。

真心を込めて、何事にも携わりなさい、という言葉は母のことです。
とても素晴らしい言葉ですね。
真心とは、「真なる心」これをイエスの心、「敵を愛する」心と置き換えててもいいでしょう。真心込めるとは、イエスキリストを心に込めること、と考えていいのではないでしょうか。イエスが昇天した今は、聖霊を込めると、考えていいのではないのでしょうか。
そして、真心を込めるとは「敵を愛する心を込めて」ということなのでしょう。
そういうことを多くの方々がやっていくとき、地には平和が訪れると思われます。

地には平和、御心に適う者にあれ、とは、敵を愛するようなものには平和と言うご褒美が用意されていると言う事でしょう。

イエスは反逆のユダヤ人を自分の許に集めようとしました。何度も何度も何千と時間もかけて集めようとしました。敵を愛する人間にしようと試みました。しかし、ことごとく、敵を愛することをすべて人間に至らせることができませんでした。反逆の民です。イエスは彼らを見捨てられたのでしょうか。いいえ違います。見捨てたのではありません。彼ら自身が助けを呼び求めた時、ご要望にこたえ様としたわけです。本当に人間が、救いを必要にした時に、応じようということにしたのです。

敵を愛するイエスが生きれいらっしゃいます。反逆の民であっても、イエスは待ち続け、自分を必要とする者には、全身全霊を込めて、助けて下さる、そういう意志をイエスが持っているということを示していると思います。

わたし達の体は神殿です。イエスが宿り、敵を愛することがイエスの助けを借りてできるかも知れません。奇跡が生じるかもしれません。自分の体の中にいらっしゃるイエスを信じて、敵を愛する愛を持って暮らして生きたい者です。
わたし達も本当は敵を愛するならこれにこしたことはないと思っているのではないのでしょうか。せめて、冒頭に上げた心得、
一 「はい」という素直な心を持ちましょう。
一 「すみません」という反省の心を持ちましょう。
一 「ありがとう」という感謝の心を持ちましょう。
一 「おかげさま」という謙虚な心を持ちましょう。
一 「どうしましたか」という気遣いの心を持ちましょう。
一 「そうですね」という分かり合う心を持ちましょう。
一 「させてください」という奉仕の心を持ちましょう。

くらいは行っていきたいですね。いのります。