マタイによる福音書23章29節~36節 神の恐さ

歴代誌下24章17~26節
コヘレトのことば 「神を恐れ、その戒めを守れ、それこそ、人間のすべて」
箴言 主を畏れることは知恵の初め

「律法学者とファリサイ派の人々、あなたがた偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。
 そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかっただろう』などと言う。
 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。
 先祖が始めた悪事を仕上げたらどうだ。

 蛇よ、蝮の子よ、どうしてあなたたちは地獄の罰を逃れることができようか。

 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
 こうして正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤ(祭司ヨヤダの子)に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたがたにふりかかってくる。

35節には、「こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる」とあります。何の罪もなく、ただ兄カインの妬みによって殺されたアベル、また「聖所と祭壇の間で殺されたバラキアの子ゼカルヤ」、これは歴代誌下の24章20節以下のエピソードで、正しくは「神殿の庭で石で打ち殺されたヨヤダの子ゼカルヤ」であって、主なる神様に背いているユダの人々に警告を与えたために殺された人ですが、それらの、神様に従ったのにそのことで恨まれて殺された人々全ての血の結果が、今み言葉を拒んでいるあなたがたにふりかかってくる、ということです。これは具体的には、まもなく起る、ローマ帝国によるエルサレムの破壊、神殿の崩壊を意識した言葉だと言えるでしょう。しかしそういう歴史的事情を離れて私たちはこれを、私たち自身に対する警告として受け止めるべきです。神様のみ言葉を、過去の、過ぎ去ったものとしてしまい、今現在の自分に対する語りかけとして聞こうとしないならば、今の自分の生活、生き方がみ言葉によって新たにされ、変えられていくことを拒むならば、私たちもまた、神様のこのような怒りの下に置かれるのです。
 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちに降りかかってくる。」
 
律法学者やファリサイ派の方々がイエスから警告されているわけですが、その注意の仕方がただ事ではないですね。偽善者であるということに怒りをもって注意されています。
まるで、旧約の時代の神に反逆した恨みでも思い起こすような、感じでもありますね。

それは神の言葉を受け入れようとしない律法学者やパリサイ派の人々の頑なさというべきでしょうか、というより、イエスの一方的な弾劾のような気がしますね。

正義、慈悲とか誠実はないがしろにしているということを指摘されます。
内側をきれいにせよ、という命令があります。

ここの箇所を、私に向けられている文書として読むべきだというのが、たいていの信仰者の意見です。


蛇よ、蝮の子よ、人に害を及ぼすものであることを断定しているようです。殺人鬼だというように突きつけられています。
 それを聞いて律法学者はそうだと答えることができませんでした。
自分は間違っていないと思ったのでしょう。
私たち人間は、自分が誤っているとはなかなか思われません。
しかし、宗教指導者に対して、イエスは徹底的に偽善者だと指摘されています。
ですから、私も偽善者であると認め、日々の暮らしの中で、偽善であるか、そうでないかをわきまえ、偽善ならそれを取り除くように、努力しなければならないと思います。
さて、私の何が偽善で不幸だといっているのでしょうか。

律法で最も重要な掟、それは、隣人を自分のように愛することでした。
ヨハネの福音書では『互いに愛し合いなさい』またいの福音書では『敵を愛しなさい』ということでした。パウロも『愛』の道が最高であり、『敵のために、自分を迫害するための者に祝福を祈りなさい』とまで話すのです。

決して、洗礼を受けなさい。教会へいきなさい。献金をしなさい。教会を建てなさい。伝道しなさい。聖餐式をしなさい。信じなさい。祈りなさい。などとは言っていない。まして、キリスト教という宗教を作れとは言っていません。

『愛せ』それだけなのです。福音とは、この1点を意味し、イエスはそのことを要求してはいるが、あとは、二の次なのです。愛するようになるために、洗礼を受けるのもよし、教会へ行くのもよし、献金するのもよし、聖餐式をするのもよし、信じ、祈るのもよし、ということを言っているように思います。

『愛する』者はイエスに属するものではないのでしょうか?

さて、この愛すること、これについて、宗教指導者の私は偽善ではないですか?と問われているのではないでしょうか?
自分の都合の良い人はよくするが、自分に不利になる人愛するか、敵を愛しているか、面倒くさく思っていないか?
さらに、礼拝をするということを持って、祈ることを持って、洗礼を受けることを持って、神に仕えている、神からの要求を充たしていると思っているのではないか。牧師という権力を使って、信徒の人や、信仰のない人、洗礼を受けていない人、他主教の人を、新興宗教の人を、カルト信者を軽く見てないか、バカにしていないか、差別していないか、かわいそうな人と思っていないか?
このような問いが浮かび上がってくるのです。

しかし、宗教指導者の彼らは、イエスに恨みと殺意を抱き、十字架につけたのでした。

こういう場合、私は首を垂れて、速やかに悔い改めるしかありません。

ルカによる福音書18章9節から14節の「ファリサイ派と徴税人」のたとえ話に目をやりましょう。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次の譬を話されました。「二人の人が祈るために神殿にあがりました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人です。ファリサイ派の人々は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしは、他の人達のように、奪い取る物、不正な者、姦通を犯すものではなく、また、この徴税人のようなものではないことを感謝します。私は週に2度断食し、全収入の十分の1を捧げてます。ところが徴税人は遠くに立って目を上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください』

言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。
誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高くされる。

さて、本日のイエスのことばを聞いたとき、私たちはどういうふうになるでしょうか。
仰せの通り、私は偽善者で、生きているのが、恥ずかしい限りでございます。主よ、どうか、憐れんでください。というでしょうか?そうなると、神は高めてくださるのですね。皆さんを。
そうではなく、「おれは正しい、間違っていない」イエスなぞおれ達におかしいいいかがりを付けよって、けしからん。おれは神様を信じて律法もまっとうしている信仰者の模範おなる者だ。救いはおれのようなものにあるんだ。あいつらみたいな穢れたやつは、地獄に落ちるしかないだろう。そういうふうに思ってしまったのではないでしょうか。イエスはそういう風に教えたのではありませんね。やんでいたり、人から阻害されていたり、罪を犯すような人達と一緒におられ、心が貧しい人、悲しんでいる人や、柔和な人、義に餓え渇いている人、心の清い人、平和を求めていたり、義のために迫害されている人たちと友にいなされた。差別して自分の存在意義を見出したりするようなことは何もなさらなかった。

私たちは普通、信仰生活を送ってきて、イエスのこの救い、すべての人を救うイエスの愛、神の愛を知ってきたはずです。

イエスはそのことをするように、できていない私に、怒りを持って、私たちに勧めています。

ならば、自分の愛のなさを悔い改めましょう。

今日までのこの箇所はイエスの怒りです。怒りに触れて私は恐いと思いますし、悔い改めていこうと思いますし、小さい者に優しく、大切にしていく歩みをしていこうという気持ちになり、聖霊は必ず、それを成し遂げて下さいます。なぜなら、私たち一人一人は聖霊が宿る聖なる神殿なのですから。

祈ります。