マタイによる福音書22章34から40節 最も重要な掟

最も重要な掟というのは、これだけは人間が行わなくてはいけない重要な事柄、最重要課題だということです。何がなんでもまず、これをしなさいと言う、命令のようなことです。人間が生きていることは、このためにあったんだというような、非常に重要なことがらなのですね。すべての人間の活動は、個々に向かうために成されるべきなのだ、ということが記されているわけです。それが、神と人とを愛するということです。

日本の現代はここ10年、技術が向上し、特に、パソコンや携帯電話などコンピューターの技術、ハイビジョンとか『地デジ』とか映像や音を、電気信号に変えて保存し、再生したりする技術、テクノロジーが飛躍的に向上している時代のようですね。
しかし、ここ10年間、自殺する人は毎年3万人を超えています。通り魔など殺したい衝動で殺人を行った人も最近ニュースで耳にしたことです。生きていくのがいやだ、死にたい、殺したい、と、感謝と慶びとは、まったく逆の気持ちを持ってしまう人が多く入るようになっています。

さて、なぜでしょうか。と、考えてしまうのです。
テクノロジーが悪いのでしょうか?
テクノロジー事態は悪くはないのでしょうけれど、人がテクノロジーを救い主としてしまうことに誤りがあるように思います。
テクノロジーでは人は救えない、それが、自殺者3万人の示す、意味だと思います。
さて、では、何がわれわれを救うか?
その答えが聖書に書いてあるから、聖書を読むわけですが、今日の箇所になってくるわけです。

律法学者がイエスを試そうとしてやってきました。
試そうとしました。彼らは答えを知りながら聞いてくるのです。律法で最も重要な掟は「神と隣人を愛する事」だと知っているのです。しかし、彼らは、神であり、人であるイエスを愛していない、憎んでいる、ことば尻を捕らえて、葬りたいと思っている、殺意に満ちているのです。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」ということを話し、「律法全体と預言者はこの2つに基いている。」と書かれています。「律法と預言者」は今で言う『旧約聖書』当時のユダヤ教聖典『聖書』のことです。(申命記6章5節、レビ記19章18節)

聖書から示される教えは、そうだと思える半面、現実にはそうではないから、話されているようにも取る事が出来ます。
「神を愛しなさい」もそうしていないから、あえて言われるのでしょうし、「隣人を愛しなさい」も隣人を愛していないからそう言われるのでしょう。
人は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛していない」「隣人を自分のように愛していない」ということになるのだろうと思います。

「神を愛し、人を愛す」とはどういうことなのでしょうか。

神の愛を、最も重要なこととして、取られ、実践していったとき、自殺者や殺人者は亡くなるだろうと思います。また、人を恨んだり、憎んだり、妬んだり、殺意をもつことも無くなってしまうように思います。

この地に敵を愛する神の愛を、霊的培いましょう。
私たちが体に聖霊を宿らすようにしましょう。信仰によって可能となる。

昨日、宇都宮で言語聴覚士協会の総会、学会にいって着ました。ある牧師の息子にあったのですが、大学の准教授になっていました。でも、その人はとても、ここ1年くらいやる気がなかったそうです。妻子も得て、社会的に成功している彼はどことなく、空しさが漂っていると言う感じでした。そして、聖書の話や牧師の話をしてきたら、とても、生き生きとしてきました。「先生、先生」と私を読んだりしてね。大学の准教授からね。駅まで送って下さいました。タクシー代も払うとか言われたのですが、それは割り勘でと言う事に。
710円だったのですが、370円貰ってきました。

神の愛のための、テクノロジー、研究であり、すべてです。そう考えるとすっきりしますね。しかし、私たちは現実は聖書のことばに躓きます。神の愛の実践、敵を愛することの実践、自分を迫害する者のために祝福を祈る実践、はたして、できるのだろうか・・・
神の愛がないと人は死へと向かう道をあえて選択してしまうのでしょうね。あえて、罪を犯してしまうのでしょうね。悪いとわかってあえて罪を犯す、あるいは、分からず犯していく・・・その先はこの世の死なのでしょう。イエスはこの死もおそらく滅ぼしてくださり、やがて、復活の体になったときは、永遠の命に預からせてくださっているのかもしれません。

しかし、神の愛に留まるならば、それを受けてだけいて、あえて、悪に進まなければ、永遠の命に預かることが出来る、しかも、生きているときにです!
万人救済説を私は説きます。イエスの十字架ですべての人は救われた。死後すべての人は復活する。そして、永遠の命に預かって生きることができる。

それから、もう一つ、生きていても、天国に入ることができる。それは、神の愛で愛していくことでしょう。人は罪人であるのに、神の愛で愛せるのか、という疑問があると思います。それは、できるということです。なぜなら、「知らないのですか?あなたがたは、神からいただいた聖霊がやどる神殿であり、もはや自分のものではないのです。」
つまり、神の霊が働くようになると、人は神の愛で愛せるようになる可能性があるということです。奇跡の到来があるということです。

祈りましょう。