生きている者の神
人間の死後の復活、これほど嬉しいことはありません。私は死をすごく恐れるものです。日本で3万人以上の方が自殺することを報道されることを耳にするたび、とても驚くとともに、経済的な理由や社会的な責任の重さなどのために命を絶つことがあることを知るとき、環境がよければ、もっといい人生を送れるのにととても残念でありません。
最近、環境、環境といっていろいろテレビで二酸化炭素削減とか、セイブザフューチャー、とか、言って、未来を救え、というようなメッセージで、エネルギー節約とか、エコとか、叫ばれていますね。環境が人が滅びる事を防げるとするなら、環境を浴することで、自殺者も減少させる事が出来ると思うのです。
さて、人は他者に対してどういう環境になるとよいのか。神から人はどういうようになれと言われているのか?それは、本日の聖書の次の箇所に書いてありますように、『こころを尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい』というようなことになると思います。われわれが生きていくうえでしなければならないこと。神を愛し、隣人を愛していく事、です。
そのためには天国がないとできないのではないのでしょうか。
神を愛し、人を愛する、これはとてもつらいことではないでしょうか?
裏切られても、無視されても、滅ぼされようとも、そういうこととは無関係に徹底的に人を尊重し続けていく。殺人や盗みや姦淫や嫌がらせがあったとしても、徹底的に尊重し続け、仕えていく、こういうことはとても割があわない生き方ではないでしょうか。
コリント信徒Ⅰ13章4節から13節「愛は忍耐強い。愛は情け深い、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかない、不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」とあります。
しかし、天国というご褒美があるならば喜んでその辛いことにでも携われるように思います。復活し、その中で喜びと感謝をもっと永遠に生きられるとするなら、現実の思うようにならない出来事を受け止め、すべてを感謝し受け止め、愛を実践する事も可能になってくるでしょう。
復活は、今現実を生きる自分の神の愛、『敵をも愛する神の愛』の実現、具現化をする意志を培う役割をも持っていると思います。
さて、ここでサドカイ派の人々が出てきます。サドカイ派の人は、「神殿の権威をかさに権勢を誇ったサドカイ派であったが、ローマ軍によるエルサレム神殿の破壊と共に、よるべき場所を失い、消滅したそうです。このため、ライバルであったファリサイ派がユダヤ教の主流となっていくことになっていきました。」人の復活を信じない人です。復活を信じられない人、とはどういう人かと考えますと、自分自身のような気がします。よくよく、自分の心を探ってみると、復活を信じていない自分、信じ切れない自分に気付かされます。それだけ、サドカイ派の人は自分に近い方々だと思います。それだけに。死の恐怖というのは彼らからは避けられなかったのだろうと思います。しかし、サドカイ派たちは、現実生活でより所としていたのは神殿の権威だったようです。彼らは祭司である事に、アイデンティーを持ち、名誉であり、栄光であり、人の取る最高の道と考えていたのかもしれません。神と隣人を愛する道ではなかったのでしょう。そして、ローマ帝国にエルサレムの神殿が壊されると、それ以降、姿を消す事になってしまったのです。
このサドカイ派の人々はイエスに復活についての質問をします。夫婦にについて、夫がなくなった場合、夫の兄弟が次々と妻の夫になる法律だったようですが、復活した場合、だれが夫となるのか?という質問です。
生きている者の神は、私たちに復活すると言う喜びを伝え、それがゆえに、愛することの重要性を示しているのだと思います。他者を大切にすることは自分を大事にする事同じことで、自分を活かし他者を生かす、自分を殺さないで他者を殺さない事に繋がるからでしょう。
神と隣人を愛する事で、私たちはこの地においても天国の祝服を受けて、喜びと感謝をもってあゆんでいけるのだと思います。