マタイによる福音書21章33節から45節
信仰者として生きる(2)
本日の聖書の箇所はぶどう園のたとえです。ぶどう園は、神様の御心がなるように作られたこの地上のことでしょう。
殺人班としてイエスは信仰指導者を批判します。それも、ただの殺人犯ではありません。愛の配慮をされる者を殺す殺人犯だと、我々を信仰指導者を告発します。
つまり、神側にある物をことごとく、排除し、いいところだけを得ようとする、不届きならぬ者が信仰指導者だと言うのです。
それに、アーメンといえるでしょうか? 言いたくはありませんが、信仰指導者は、殺人者だということを、この聖書から伺いしることができるでしょう。
自分とは、そういう、存在であるということを告白しなければならないと思います。
ですから、信仰指導者がもし、この地に立てられるならば、これは、矛盾であり、不可能なことです。殺人者がなぜ、人の信仰を導く事が出来るのか、そこに、真の悔い改めが生じたときにのみ、少しは信仰指導者として、成立するか、そう言う感じしか、もてません。
牧師と言うのは、僕に死ぬ書いて、牧師だということを話された方がいましたが、まさしく、その通りだと思いました。そういうことからいきますと、牧師と言いますのは、イエスと一緒に十字架につけられまして、こういった方がおりますね。「お前は神をも怖れないのか。同じ刑罰を受けているのに、我々は自分のやったことの報いをうけているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない」イエスはその方を、「あなたは今日パラダイスにいるだろう」と言われました。罪の自覚、それが、義とされることであり、信仰指導者としての条件といえば条件なのかもしれません。