マタイによる福音書21:12~17 「祈りの家」
昨年、聖書を読んでいて、一番印象に残ったのが、パウロの言葉「あなたがたの体は神からいただいた、聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」というところでした。
これは驚きでした。この視点をもって聖書を読んでいくととても分かりやすくなります。
御子がマリアに宿ったことも、私たちが神殿であると言うことなれば、そういう意味だったのかということがより深く理解でき、神共にいます、ということもぐっと真実性を増して来ましたし、足跡と言う詩の意味もよく理解できるようになりました。
例えば、教会はキリストの体であるということ、キリストの体になるように頑張るのではなくて、人が集まれば神殿と神殿が集まってくるのですから、キリストの体になっていくのは当然のことだということ。増して、信仰者ならそれを自覚してキリストの体としての意識ができやすいこと。
罪人であり、しかも、赦されている我々の存在と言うのは、罪を生み出す肉を私たちは有しているからで、肉によってはこれはいかようにもできない問題です。しかし、この肉を神殿としてくださるイエス、聖霊、神が働いていれば、もはや、罪人であり、かつそのままで赦された義人でもある事を理解しやすくなったわけです。
祈るときは奥まった部屋で独りで祈りなさいという事も、自分の体、神殿の中にいる聖霊に祈ればよいということが理解できます。このように私自身は聖書の理解の仕方の一つの鍵をいただき、とても恵まれた1年だったとおもいます。一人一人が神殿であるということは私がはじめに発見したわけではありません。ネットをみますと、多くの牧師が語っていました。私はイエスはどこにいのるか、天とはどこか、上か、宇宙のどこかとか、愛がある場所に生じるのか?、祈っているときに現れてくれるのか、礼拝のときかとかいろいろ考えていました。しかし、聖霊のいるところは自分の体という聖書の言葉は、非常に驚きであり、今後の自分の信仰生活、教会形成、仕事、地域生活、国についての考え方、世界観へと大きく変化をもたらす基本的な、基礎的な土台となるように思われたのです。大変な言葉に出会ったと言う思いです。
さて、本日の聖書の箇所から、お話の題は『祈りの家』としました。
『私の家は、祈りの家と呼ばれるべきである』とイエスが神殿に入って言われたことばからとっています。
神殿内での話です。
イエスが神殿に入ると、そこで売り買いしている人を追い出し、両替の台や鳩を売る台をひっくり返しました。
そして言います。
「こう書いてある。『私の家は祈りの家と呼ばれるべきである』ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている。」(これは旧約聖書の「イザヤ書56:7 エレミア7:11」からの引用のようです)
エルサレムの神殿といえばユダヤ教の中心、メッカ、エリート信仰者、神学者が集まるところです。
そこでは聖書が朗読され、祈りや捧げ物がされていたようです。両替というのは献金のときに、神殿用の特別なお金に変えたようです。その両替で手数料を取っていたようです。捧げものの品として鳩などいろいろ買っていって神殿での礼拝に捧げていたようです。「神殿が強盗の巣にしている」といったように、神殿ないのは、祈りのためではなく、金儲け、しかも、偽装問題を含むようなことが生じていたのではないでしょうか。それでイエスは怒ったのだと思います。また、イエスは目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄ってきたので癒やされたとあります。おそらく、そういう生活に困難を覚えるものが、神殿で癒やしを祈っていたのかもしれません。そういう人からもお金を巻き上げていたのかもしれません。
他方、その神殿の祭司長や律法学者らはイエスがなさった不思議な業を見て、しかも、子どもたちまで「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて、腹を立てました。そして、イエスに言います。「子どもたちが何と言っているか聞こえるか。」 イエスは言われました。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』(詩編8:2)という言葉を読んだ事がないのか」と言い返します。イエスを救い主と思っている群衆をしり、そんなバカな事があるかと思い、自分たちの神聖な場所を汚されたと思い、腹ただしかったのでしょう。イエスは相手にしてくれない祭司長や律法学者たちをと分かれ、4・5キロ離れたベタニアに行って泊まりました。
イエスが神殿内に入って宮を清めているところです。
そして、神殿は祈りの場でなければいけないと話します。
神殿とは何の事でしょうか。
パウロの言葉を借りれば、私たちの体のことです。
私たちの体が神殿ならば、イエス、聖霊となって私たちに入っています。
そして、その神殿の仕事は祈りだというのです。
私たちは、生きていてしなければならない事は、祈りなのでありましょう。
いえ、生きている事が、イエスの祈りなのでしょう。死を招く罪の購いをイエスは十字架によって成し遂げてくださったからです。その霊が自分の体の中に宿っているのですから。
さらに、イエスは執り成しの祈りをしてくれているとローマ人への手紙で書いています。
私自身、罪深い者が生かされているのは実に、十字架ついたイエスとさらに復活して聖霊になったイエスの執り成しの祈りがあるからなのではないのでしょうか。
パウロがローマ信徒への手紙で以下のように言っています。
同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます。”霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。〔ローマ 8:26-27〕
だから、私たちもイエスの祈りに合わせていのっていきたいと思います。
祈るときには、
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らの真似をしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。だからこう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日お与えください。わたしたちの負い目をお許しください。わたしたちの自分に負い目のある人を赦しましたように。私たちを誘惑に遭わせず、悪い人から救ってください』
さて、このように私たちが神殿であると言う事が分かりますと、自分自身が祈りを始めていきたくなってしまいますね。そして、さらに教会の問題、特に過疎地にあって小さくなっている教会の問題を考えて生きたいと思います。人一人いればそこに神殿があるということになるでしょう。一人いれば神殿が立っているということになりましょう。そしてそこには聖霊が働いていると言う事になります。キルケゴールという人は誰もいない礼拝堂で一人礼拝を捧げ、説教を行っていたと言います。一人イエスを信じる人がいれば神殿が立っているということです。一人生きていればそれが神殿となる可能性があるということです。ここに注目したいと思います。教会が小さくなると言う事は何を嘆いているのでしょうか?
イエスの働きを嘆いているんでしょうか?
教会の栄華を求め、その衰退を嘆いているのではないのでしょうか?
私たちは教会が大きくなったり、小さくなったりする事に一喜一憂しなくていいのではないのでしょうか。
イエスが共に我々といる、我々一人一人は聖霊の住みかであるということが分かれば、もう心配はないのではないのでしょうか。
とりなして下さるイエスがいる、・・・そして、信仰と希望と愛は決して消えない、永遠に残ると言う事が分かると、後は何を求めましょうか?
イエスに従って生きる事、それしか残らなくなりますね。
それは、祈りであると言っています。
祈って行きたいと思います。
『主の祈り』を祈っていきたいと思います。
そして、今自分が従事している事にも祈りをもって関わっていきたいと思います。
祈るところにイエスの家、神殿があります。
そして、その場が、御国になるかもしれない、御心の成る如く,成るかもしれない、
そして、祈る場は、罪の赦しの場になりうると思うのです。少なくても大きな希望があります。
人皆聖霊の宿る神殿です。キリスト者が近づいて交わりを持つとき、そこに、イエス聖霊が働いてくれないはずがありません。
大いなる力が働き、病や苦しみにある人や社会的に排除されている方々に癒や奇跡の神の業が与えられ、
すべての人に聖霊の働きがなされるのではないのでしょうか。
キリスト者が生き、暮らしていくということで、その人たちが、聖霊の働きに導かれて、祈り、何か恵みの出来事が生じていくのではないのでしょうか。
それはどのようなことかはそれぞれああえられた個人個人の暮らしに関係してくる事でしょう。
しかし、大きな幸いではないですか。
みなさんは歩く神殿です。聖霊を宿らせた神殿です。そう思うと、信仰者は新しい人間と言うことになるのでしょうね。イエス聖霊を宿らせた新しい人間の誕生です。その新しい人間は主の祈りを祈っているのです。
教会はまた神殿の集合体です。ここでも主の祈りが捧げられます。教会では自分が神殿であると言うことを確認したい、強く自覚する場所でもあると思います。そして、それぞれ個人が遣わされている場所に出て行くのでしょう。
一人一人が神殿であり、そこで主の祈りがなされるとき、そこは御国かもしれません。地に御心がなされる奇跡かもしれません。現実の生活の必要な糧がすべて与えられるかもしれません。罪の赦しがなされるかもしれません。希望があるんですね。そう祈っていくときに、教会も地域生活も、仕事や学校、社会生活も国家も世界も希望がもてるんですね。我々が祈りの家となるとき、希望があるんですね。譬え我々の肉が強盗のようであってもイエスは宮を清めている、そして、病が癒やされる奇跡が起こる、御国が現されるという希望。私の肉の意志とは関係なく生じる御国の到来の希望、それが、人が生きているどこにでもあるということを覚えます。
新年にあたり、一人一人が聖霊の住まいである神殿であるということに思いをよせてもいいのかと思っています。私たちが生きているというのは、霊的にイエスの祈りがあるからなのではないでしょうか。
そして、私たち一人一人がイエスの祈りの家、とされているのでしょう。
そういう事に気づいていく事によって、私たちはすべての人の命をいつくしむ事ができるのでしょう。
また、私たちが日々暮らしの中で与えられている、仕事や出来事は、他者を癒やしたり、愛したりすること、私たちがイエスへ主の祈りを捧げるための業となっていけるとよいと思うのです。
この1年も主の祈りをそれぞれ奥まった部屋で一人で捧げていきたいと思っています。