マタイによる福音書19:16-30 先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる
イエスは私たち人間の思いを遥かに越えた恵みを提供してくれています。それが神の国とか、天の国とか永遠の命と御国とか言われているものです。私はその恵みに預かるには相応しくない罪人でありますが、イエスはそれでも自分を十字架につけてまで、私に天国の恵みを与えてくれようとしています。私にはその恵みはおぼろげにしか分かりませんが(コリント信徒13章12節にありますように)、きっとすばらしいものなのだろうと思っており、希望と喜びを与えられているように思います。その恵みに気づいているのがキリスト者であり、その恵みを知っているからこそ、私自身、敵のために祝福を祈っていく、敵をも愛する神の愛の実践者としてこの世の使命を感じていくのだと思います。
さて、この永遠の命を得られないと感じている青年がイエスに近寄ってきて言いました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをしたらよいのでしょうか」と尋ねます。この青年は自分が善いことをすれば永遠の命を与えられると思っていました。イエスは言われます。「なぜ、よいことについて私に尋ねるのか。良い方はお一人である。もし、命を得たいのなら、掟を守りなさい」と言いました。男は更に「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは「『殺すな』『姦淫するな』『盗むな』『偽証するな』『父母を敬え』また、『隣人を自分のように愛しなさい』」そこで、この青年は言います。「そういうことは皆守ってきました。まだ、何か欠けているでしょうか。」イエスは「もし完全にないたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから私に従いなさい。」青年は仕事も一生懸命だったし、律法を守ることにも熱心で周囲からは立派な人だとか、人格者だとか、善人だとか言われていた人だったと思います。しかし、この言葉を聞き、悲しみながら立ち去りました。たくさんの財産をもっていたからである、と聖書に記されています。おそらく、彼は当時の成功者だったのでしょう。今で言えば、大手企業の取締役、経済界のトップ、この世の最先端を行く、誰もがうらやむようなエリート。時代の寵児。また、この財産は彼一人のものではなかったのかもしれません。家族や周囲の協力者など関係者が多くいて、その財産によって暮らしを支えられている方だったのかもしれません。その財産を捨ててしまったら、彼とその多くの彼に雇われたり、協力してくれている人たちはどうやって暮らせばよいか、考えただけでも恐ろしくなったのかもしれません。この青年は悲しみました。自分も得たい得たいと思っていた永遠の命は得られないのか、自分は悪いことをしようとおもっていたのではない。この時代に懸命に生きてきたはずだ。律法を守り、世の為、人のため働いてきてきた。そして得た財産。それなのに、イエスは何という冷たいことを言うのだろう。意地悪なことを言うのだろう、なんて人を絶望させるようなことをいうのだろう、私は間違っているか、そうも自問したでしょう。この出来事に彼は悲しみを覚えずにはいられませんでした。そして彼は去っていきます。
イエスはそれから弟子たちに語ります。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが天の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それではだれが救われるだろうか」と言いました。イエスはそれに対し、「それは人間にはできることではないが、神にはなんでもできる」と語りました。すると、ペテロがイエスに話します。「この通り、私は何もかも捨てて、あなたに従ってきました。では、私たちはいったい何をいただけるでしょうか」。それを聞いてイエスは言われました。「はっきり行っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従ってきたのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。私のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と結ばれます。
永遠の命は始めにも語りましたが、恩寵としてイエスから一方的に与えられたものです。どんなに罪を犯しても、一般的に役に立たないと思われる人間でも、イエスにはすべて必要な方々なのです。天の国を我々は与えたれた、という事実、その事実のある今の中に暮らしているのが我々です。それに気づいている者と気づいていない者がいるだけです。
その恵みに気づける多くの人は、富がなく、むしろ、天の国のためにもろもろの自分の所有を放棄せざる終えない人が多かったのでしょう、病人とか障碍者とか、世の中から忌み嫌われる職業の収税人とか売春婦とか、世から排斥されるような、世の中のランキングとしては、後ろの方にいるものなのでしょう。イエスは特に罪人であればあるほどその人を愛されています。イエスは意外な人に呼びかけ、その恵みを知らせる方なのではないでしょうか。どうして私のような者がイエスの十字架の救いを知らされ、キリスト者にされてしまったのだろう。もっと違う人がキリスト者になっていたら、多くの人を教会に招きいれることもできるだろうにと思うわけです。イエスはスーパースターを初めからは選ばない。むしろ、それとは対極にあるような、乳飲み子とか、貧しい者,やんでいる者、社会から罪人と思われるような人たちを積極的に福音を知らせているように思われます。そのような方はイエスの恵みに気づきやすく、天国を知ることができるということだと思います。それに比べ,世の中の先頭立っているような富を有する人が天国に気づくのが遅れると言うことを語ってくれています。
結局富んでいても、貧しくとも、イエスの十字架で天の国に入ることができるようにさせて頂いた恵みを私たちはよく理解していきたと思います。財産を持っている男も悲しむことはなかったんだと思います。
イエスの恵みに気づいているなら、あのような質問もしなかったでしょうし、今までの仕事をしていったでしょうし、律法を守ることにも疑問も持たずに、自分の信じるべき道を歩んでいったことでしょう。そして、イエスは財産の使い方についてもアドバイスされていました。イエスは彼が永遠の命を与えられないとはいいませんでした。むしろ、永遠の命を与えて加えて、さらに現実に、生きる選択肢をもう一つ提供したように思います。このまま暮らすのもよし、財産を貧しい人に提供して、イエスに従ってもよし、もしそうだとしても、決して捨てた分の100倍の財産が与えられるだろうこともイエスは考えていたようでした。
まず、神の国と神の義を求めていきなさい、そうすれば、必要なものはすべて与えられるという。イエスの言葉を信じて生きたいと思います。