マタイによる福音書18章1節から5節 神の愛を発揮する者
聖書には神の愛について書かれています。
「愛」という言葉は多く世の中に出ていますが、「神の愛」までは中々出ていません。
なぜなら、神の愛は「敵をも愛する愛」だからでしょう。
マタイによる福音書5章38節以下48節をお読みします。
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を』『歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」
次の敵を愛しなさいには
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなた方の天の父が完全であられるようにあなた方も完全でありなさい」というように語られています。
神の愛を発揮する者になれ、と言っていると思います。「完全である」とは「神の愛を発揮する」ことにおいて完全であるということです。
聖書やイエスの教えの中心はこの世において、「神の愛」の実現、実行となるのでしょう。私たちはそのために生きている、暮らしている、学んでいる、働いているのだと思います。
さて、神からの至上命令「神の愛で愛せ」「敵を愛せ」「迫害するもののために祝福を祈れ」という命令を目にして、わたし達は、それはできない、と言う、絶望にも似た、拒否、諦めを覚えてしまうのではないでしょうか。そういうことは現実では在りえない、無理なことだ、理想論だと、その言葉だけには従えません、赦して下さい、と引いてしまっているし、興味を示せないし、それより、自分の欲望を満たして暮らせる道を探っていこうとしてしまっているのではないでしょうか。その結果の現代社会をわたし達は暮らしているのです。
満足できているでしょうか、それは考えものだと私は思っています。
この地で私たちが本当に満足を得たいと思うときに、「敵をも愛する神の愛」は絶対必要になってくるのだと思います。友人関係、夫婦関係、家族関係、師弟関係、同僚の関係、職場での人間関係、恋愛関係において、「敵を愛する神の愛」で関係をつけていったら、とても、満足し、喜びと感謝に満ちた暮らしが送れる様になるのだと思いはなんとなく分かるような気がします。しかし、これはとても難しい出来事でもあると思ってしまいます。我々は道があるのに、道を失い、「敵をも愛する神の愛」の重要性に気づかず、気にせず,無視しつつ歩んである者です。戦争やテロが多いのも理解できるような気がします。敵を赦せないからだと思います。また、敵を愛していったら、敵に滅ぼされてしまう、悪人のそのままにしていたら、世の中の悪人が増え、世の中が滅んでしまうという不安に捕らわれているからかもしれません。
現実に神の愛の実践は人間には無理なのでしょうか。
よきサマリア人の譬えのお話の世界だけのことで理想的な事柄なのでしょうか。神の愛の実現者としては、マザーテレサなどは「神の愛の宣教者会」、「もっとも貧しい人のために働くように」という神の招きを受ける体験をした。インドのカルカッタに「死を待つ人の家」を作ってホスピスを行っていった。
彼女は貧しい人を愛していきました。これも神の愛の実現者といっていいでしょう。
敵を愛した例としては、どういう例があるのでしょうか。なかなか見つけることができませんでしたが、自分を迫害する者のために祝福を祈る、迫害するものために愛する、こういう実例というのはあるのでしょうか?
前にも紹介しましたが、ルーマニアであった本当の話を題材にして作った「小さなリース」というお話には、自分の両親を殺された女の子が殺された将軍のところにリースを毎日届ける話が神の愛の実践としてしめされていました。
NHKの大河ドラマ『風林火山』の晴信と諏訪の殿様の諏訪頼重が敵同士になって、その頼重の娘が晴信の側室となり、勝頼という子どもを儲けるという話は、敵を愛する愛が少しは示されているのかもしれません。上杉謙信が武田信玄に塩を送ったということも逸話としてのこっています。
また、兄弟で高校の違う野球部に入っている人がおりますが、どちらも中が言いということです。
また、5歳と6歳の2人の年子の男の子がいるんですが、その方々も母親を奪い取るような感じもあるのですが、お互い平等になったりもするようです。
物語の主人公はある国を支配する孤独な将軍です。体制に反する人々を次々と粛清し権力の頂点に立ってはいますが、誰ひとり彼を愛する者はなく、自身もそれを承知しています。しかし、ある日から彼の屋敷の門に美しいリースが毎日届きはじめます。贈り主をつきとめるとそれは将軍がかつて投獄し死に至らしめた夫婦の幼い娘からのものでした。さあ将軍は……。
両親を奪った将軍への憎しみを神さまにあずけて「あなたの敵を愛しなさい」というみことばを実践しようと大胆に将軍に接近してゆく少女の無垢でひたすらな信仰の姿は日頃の些細なことさえなかなか赦せず自らを苦しめる大人の心を揺さぶることでしょう。これが事実に基づいた話であるだけに真の平和は個人であろうと国家や民族間の問題であろうと、人が神の愛を体現してゆく他ないのだという作者の確信が伝わってきます。
さて、こうしてみると敵を愛するということは、実際この世に実現できそうにも思います。
今日の聖書の箇所はそれをどうやったら可能になるのかをイエスが示してくれている場面です。
「天の国で一番偉い者とは誰でしょうか。」と弟子たちはイエスに質問します。
イエスは一人の子どもを呼び寄せて言われました。「はっきり言ってく。心を入れ替えて子どもの様にならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国で一番偉いのだ。私の名のためにこのような一人の子どもを受け入れるもの者は、わたしを受け入れるのである」
子どものようになること、その子どもを受け入れること、この2つが天の国で一番偉い、
つまり、敵を愛せという神の命令の実行者だというのです。
神の愛とは、お金を好きなだけ与えて、いろんなもの、知識とか技術とかたくさんもっているなかから、その人に間に合う分だけ与える、ということではないようです。
子どもというのは、ルカ福音書では乳飲み子をさしています。
なぜ、無力と思える子どもが偉いのでしょうか。
敵を愛する神の愛の実現者なのでしょうか。
それは最も低いところにいるからでしょう。たとえ憎まれていても、その憎しみを理解できず、どんな人にも信頼して生きていくため、助けを求めることが出来るという能力があるからでしょう。弱さが敵をも愛する神の愛の実行となるということでしょう。赤ちゃんには新生児微笑というのがあるそうです。自ら発する微笑は、周囲の環境とは関係なく、どんなところでも発せられるようです。弱さを守る防衛反応というような人もいますが、その理由はいまだ分かっていません。胎児の時から笑っているということも最近わかって来ました。子どもはそもそも喜んで感謝してすべての人を信頼するようにしているのではないでしょうか。周囲に関係なく、信頼し、感謝している。そういう存在なのではないのでしょうか。自分が傷つけられてもうらまず、虐待の親にあっても、恨まず、赤ちゃんポスト入れられても喜んでいる。私たちを頼る以外に、自分以外を神と同じように信頼してしか生きていけない。そういう存在であると思います。
最も弱いものとは、自分以外のすべての人を神と同様に思い、信頼し、助けを求めていく姿をしてるのではないのでしょうか。
敵であろうが味方であろうが、信頼し、神のように尊重して、従っていくしかない、そういうことが敵をも愛する、神の愛なのではないのでしょうか。
そして、そういう弱いものを受け入れることが、神の愛の実践を支えることになります。マザーテレサは、神の愛を行う人々を受け入れて、支える方、こちらのほうにいたように思います。
イエスキリストも私たちを信頼し、神のように尊重し、従ったのではないでしょうか。その結果十字架にかかってしまいました。みごとに裏切られてしまい、命を奪われてしまいました。このとき、イエスは「わが神、わが神、なぜ、私を見捨てになったのか」と語ります。これは、人々に向かって叫んだ言葉です。私たちに向けられて語った言葉です。天の神にも語ったのだと思いますが、同時に、私たちにも語っているんじゃないでしょうか。「私はあなた方が神のようであると、信頼していたのに、神と同じように愛してくれる人だと信頼していたのに、神の愛を実現できる人たちだと信頼していたのに、どうして、私を見捨てるのか、私は神の子であると同時にマリアの子、人の子、あなた方が私の親、そして神と同じように私はあなた方に、この命を保つことを信頼して、頼っていたのに、なぜ、私を見捨てるのか、神の愛の実現できるあなた方から、なぜ、私は見捨てられなければならないのか」ということを語ったと、取ることはできないでしょうか。イエスは愛した人に殺されたのです。イエスの苦痛と絶望は肉体とこの精神状態にもあったのではないでしょうか。しかし、復活し、敵をも愛する神の愛は亡びませんでした。そして、聖霊となって、さらに我々の中に住むようになり、神の愛で愛せるよう私たちを助けて下さるようにして下さいました。
私たちすべてが、乳飲み子のようになれば、神の愛が実現すれば、戦争やテロはなくなるでしょう。乳飲み子とそのようなものを受け入れるだけの人々になれば、世の中平和に大人も子どもも平和になることでしょう。弱くなり、相手を信頼して、助けを求めることと、弱い人を受け入れて、弱い人たちが生きるために助ける、そういうことだけをすること、これが、この地上での神の愛の実現になるのだと思います。
天国へ行けば、これらはすべて実現されているのでしょうけれども、そういうことを前もって知ってる私たち信仰者はこの地に置いても、敵を愛する神の愛の実践者として、天国の喜びを先取りできるという、恵みを頂いていると思います。
少しでも、敵を愛する神の愛で愛して、敵のために主からの祝福を祈る、これはできそうではないですか、この地に置いても、神の愛で愛する実践を通して、喜びと感謝の先取りをさせていただけたら幸いと思います。
祈ります。
ローマ12:9-21 迫害する者のために祝福を祈りなさい。
ローマ
コリントⅠ 8:19 知らないのですか、あなた方の体は、神から頂いた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身の物ではないのです。
コリントⅠ 12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一位一人はその部分です。
コリントⅡ 8:16 私たちはいける神の神殿なのです。