謙虚さに働く神の奇跡 マタイによる福音書14:21-28

イエスたち一行は、本日の聖書の箇所では、ティルスとシドンの地方に行かれた。とあります。このティルスとシドンというところは、ユダヤの地方ではなく、フェニキアという地方で、ユダヤ教ではなりません。イエスはユダヤ教の指導者と対等に口論していましたが、慣習や昔のしきたりや言い伝えを超えて、本質を明らかにしていかなければならず、とても疲れていたのではないでしょうか。しばしば、イエスは隠れられて、祈りをなされます。今回も、イエスを殺そうとするファリサイ派や律法学者におわれて、一休みするためにシドンやティルスに入られたのかもしれません。外国の地はイエスを敵対しすることなく向かいいれて下さり、イエスは助かったのだと思います。また、イエスは外国の人たちに感謝していたようにも思います。
さて、その外国の地に来たときに、一人の女性が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。娘がひどく悪霊に苦しめられています」と叫びました。しかし、イエスは何もお答えになりませんでした。無視するんです。愛のイエス様はどうしてなのだろう。
弟子たちは、イエスに近寄ってきて願いました。「この女を追い払ってくだっさい。叫びながらついて来ますから。女はイエスに救いを求めて、奇跡を起こしてくれ、娘の悪霊を追い出してくれと、叫んでついてきたのですね。イエスならなんとかしてくださるだろうと思ってです。イエスは「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか使わされていない」とお答えになりました。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうか、お助け下さい」といいました。その女を見て、イエスは「子どもたちのパンを取って、子犬にやってはいけない」と話します。つまり、子どもというのは、イエスは自分の国のイスラエルの人たちのことで、そういう人へ救いを与えることが目的なので、それを子犬、つまり、イスラエル以外の外国の人にすることはできない、フェニキアはイスラエルとは仲がよくなかったようです。予定外のことなのだ。とここで話します。このとき、イエスは申し訳ないと思ったのでしょうね、たぶん。予定外のこと、神が私にせよということをイエスはしているのであるから、申し訳ない、どこかほかの悪霊を追い出す祈祷師にでも頼んで下さい。と話したのではないでしょうか。ところが、この女性、なんとも、食い下がります。「主よ、ごもっともです。私は人間以下、犬のような物です。しかし、子犬といってくださって、ありがとうございます。犬畜生と言われないだけでも感謝します。しかし、イエス様、ペットとして飼われている子犬でも、主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」と話されました。
この女性は自分は確かに犬みたいな存在で、神から人間扱いされていない罪びとであることは重々知っていたようです。しかし、自分も娘だけはかわいくてしょうがない、娘の病を悪霊を追い払いたい、その一心で、イエスに頼んでいるのです。自分のしあわせのためではない。娘のためだ。娘をなんとかしたいだけだ。この願いをイエスが聞いて下さないはずがないという気持ちでいたのでしょう。謙虚で悔い改めがあって、他者の苦しみを癒そうとする、そういうときにイエスの奇跡が働きました。というより、イエスの十字架なしの救いが行われていったのだと思われます。
何度も、語りますが、イエスの十字架なしで救われる人間の姿が聖書に示されています。ひとつは赤子、一つは悔い改める者、ひとつは瀕死の人を救う人です。これらは、無条件で天国行きです。ここでは、謙虚な人が、他者の苦しみの癒しを祈ったときに、イエスの奇跡を引き出したように書かれていますね。世の中には理解できないことがたくさんあります。聖書には不思議なことが一杯書いてありますが、苦しみからの救いは必ずあります。謙虚さと苦しみからの解放をイエスに祈ることが、その奇跡をみる鍵、条件となってるようです。十字架で我々すべてを救い、さらに、恵みを与えて下さる主に、ただただ、感謝するだけです。