マタイによる福音書13:24-30 人のなすべきこと

ここでは麦と毒麦とのたとえ話が語られています。
麦というのは良い種から成長するもの、毒麦とは敵が来て麦の中にまいた毒のある麦です。
その芽が実って、僕たちは毒麦があることを知り、主人様に毒麦を抜いてしまおうかと話されます。しかし、主人は「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜いてしまうかもしれない、刈り入れの時はよく違いが分かるようになっているだろうから、刈り取る者にいいつけよう」と話されました。
終末のときに良い者だけが残るという、希望が示されています。
今は現実は、よきものと悪き者が同居している時代です。
悪いと思うことはよく目につき、つい、注意したりしてしまったり、あの人はどうのこうのだと裁いてしまったりすることがよくあります。そしてけんかになってしまうこともあり、気分を害することもあります。また、憎みあってしまうこともあります。世の中平和に暮らすのは難しいなあと思うことは多くあります。

聖書からみると、よきもののなすべきことは、神のことばを聴いて従うこと、悔い改めること、幼子のようになること、弱っていたい病気の方を癒すことであって、悪い者かいい者かを区別し、排除することではないということを話されます。キリスト者は隣人を自分のように愛するという使命があります。他者を許すという使命があります。
そういうことを行っていきなさい。
裁くのは神であって、決して人間の力ではできないということを語っているようです。
こういう理解は信仰がないとできないことです。
被害者は報われていないといわれます。それは神の裁きを信じられないからでしょう。神は裁く、だから、敵の祝福を祈っていく、敵が神からの導きを受けていくように祈っていく、これが、信仰者の敵への態度であり、なすべき、愛に他なりません。イエスの十字架がそうであった様にです。

しかし、非常なセクハラを赦せというのか、殺人者を赦せというのか、戦争を赦せというのか、ヒットラーのような狂気を赦せというのか、神は本当に裁きを行うのか?毒麦と分かっていながら、毒麦をそのままにしておけというのでしょうか?
聖書ではその通りのままにしておけとは言っていないように思います。
なぜ、毒麦を抜くなというかといえば、よい麦まで一緒に抜いてしまうからであると語っていることに注意していきたいと思います。

当時、イスラエルの地方で、麦がまかれていたようです。その麦には毒麦が混ざっていたようでした。毒麦は小さなうちはよい麦と非常に似ていて分かりません。だんだん大きくなると、葉の形が細長くなって、よい麦とはっきり分かりやすくなると言われています。

さて、ここで抜いてはならないといったのは、よい麦まで抜いてしまう可能性があるからです。よい麦を抜かないために毒麦を抜かないようにしているのです。はっきり、毒麦と分かったなら、抜いても構わないのではないでしょうか。
本日の聖書の箇所の解説で、13章の36節から42節に「毒麦」のたとえの説明があります。

「それから、イエスは群集を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄ってきて、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「よい種をまく者は人の子、畑は世界、よい種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまづきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らはそこで泣き喚いて歯ぎしりするであろう。そのとき、正しい人々はその父に国で太陽のように輝く。耳のあるものは聞きなさい。」とあります。

さて、ここで考えたいのは、「毒麦」です。人は毒麦なのか?ということです。
この文を読んだり、聖書から判断する限りでは、人は神から作られた神の子です。アダムとイブを先祖にもつ、神の子です。悪霊から生まれた人間は一人もいません。毒麦は「悪魔の子」です。悪魔とは、恐らく、人の形は取ってはいないように思います。それは、悪霊として存在し、絶えず、人間の霊や精神に取り付き、主の業を妨害したり、イエスを信じることを妨げたりする、霊的な存在だと思います。イエスキリストがなぜ、我々の身代わりに十字架についたか、それは、我々肉の身を取った我々が、自分の子、神の子、御国の子であるからではないでしょうか?また、我々の肉的な存在をを滅ぼすことでは、悪霊の本質を滅ぼすことができないからと思ったからではないでしょうか?
天使なければ、見分けがつかず、滅ぼすことができないような、悪霊と共に現実の人間社会は存在しているが、人間そのものは悪霊ではない。悪霊に取り付かれている人に過ぎないとうことなのでしょう。

そのような現実に暮らす我々にとって、毒麦を抜き去ることは困難なように思われます。セクハラをしたり、人を傷つけたり、殺したりする人をなくしたい、そうは誰もが思うことだろうと思います。しかし、悪霊に取り付かれている人間が、悪霊に取り付かれている人間を裁くときに、神の子の人間を滅ぼすことになってしまう、とここでは語っているのではないでしょうか。もし、我々が人を裁くときにはそういうことが起こるということを示しているのではないでしょうか。そして、現実にそういう結果になっているのではないでしょうか。パレスチナとイスラエルの戦いしかり、テロとの戦いしかり、北朝鮮との関係しかり、イラク戦争しかり、ヒットッラーしかり、死刑者しかり、なのではないのでしょうか。自分は正しいと思っていても、相手を完全な「悪」と決めるには限界があるのではないでしょうか? ですから、人が相手を裁いたとしても、裁ききれないのが、正直な話なのではないかと思います。

では、我々は黙っていてよいのでしょうか。それは、違います。エフェソの信徒への手紙6章10節から書かれている内容を読みます。
「最後に言う。主に寄り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかり立っていることがでいるように神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのようなときにも”霊“に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず根気強く祈り求めなさい。(10~18節)」とあります。

ここにも、私たちの戦いは血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものだと語らえています。それには、救われたという信仰に立って、神の言葉に従っていきなさいと語られます。これは、人を愛していきなさい、多様な生のあり方を大切にしなさいということと同じことであろうと思います。そして、どのようなときにも、"霊“に助けられて祈り、願い求めなさい。と勧められています。

神が裁いてくれるから、わたし達は、毒麦のような悪霊の誘惑に唆されながら、何もしないで暮らしてよい者なのでしょうか?神がすべてをやってくれるから何もしないで暮らしてもいいのでしょうか?それは違うと思います。私たちは悪霊の誘惑に陥れられないように、救われたということを元にして、注意して、いつも、祈るよう求められています。
悪霊はわたし達は救われていないと囁いてくるでしょうから。
そして、神の言葉を取るように勧められています。人を愛していく道を歩むように、いろいろな生き方を大切にするように求められています。悪霊は、人を愛するよりも、自分の欲望を満たす方が、人にとって自然でより健康的で当たり前の生き方であると囁いてくるでしょうから。
“霊“に助けられて祈り、願い求めるように勧められています。悪霊は、神がすべてやってくれるから、祈らなくてもいい、願わなくてもいいと囁いてくるでしょうから。

わたし達はイエスキリストの十字架によって救われることを願う者です。アーメン、アーメン、救いたまえ、イエスよ、助けてください。この罪なる私を憐れんで下さい。毒麦に惑わされつつ、生きているわれを、誘惑より救い出したまえ。アーメン。
裁くな、復讐や報復はするな、とはいいます。しかし、毒麦と分かっていながら、それを毒麦のままにしてよいとはどうしても思われません。
わたし達は「天になるごとく、地にも成させたまえ」と祈っています。
地においても神の国の如く、天の国の如くにあってほしいと思うわけです。

しかし、神は裁きの神であることが大前提です。神は裁く、必ず裁く、だから、我々は毒麦がそばにあったとしても、救いを信じ、神の裁きに委ね、自分は赦し、或は、人を大切にする行為のみを行っていく、そのようにできるよう祈り願い求めていくと言う道を選んでいきたい思うのです。

このようなキリスト者がこの世にいき続ける事は、奇跡なのかもしれません。
しかし、主が、聖霊が臨んでいるとき、悪霊が現実の欲を満たせと囁き、誘惑するこの世にあって、キリスト者は生き続けていくでしょう。
また、キリスト者の愛と平和を願う祈りも続いて行くでしょう。