木とその実 マタイ12章33節から37節

 イエスは多くの病人が癒されました。誰が見てもよいことをしました。それを見た人々はダビデの子(救世主)ではないか、と言い出しました。救い主と見抜く人々がいました。しかし、ファリサイ派の人々はイエスに対して、悪霊の頭だというように決め付けてしまうようになっていきます。当時のファリサイ派の人々は神についての知識人、旧約聖書に精通した、信仰の指導者、専門家でした。彼らは律法を守ることが人々の正しい信仰のあり方、生き方であり、神に対して忠実な態度、神に祝福される人間として相応しい態度であると考えていたようですから、一人の人が神であるとういうことには拒絶的でした。私たちも今、生きている人が神であるというようなことを聴いては、そんな馬鹿なとことあるか、と思うでしょう。それと同じような感覚で語ったのだと思います。しかし、イエスはそれを否定していくのですが、そのようなときに、語られたことばが今日のことばでした。
 木と実によって良いのもか、悪いものかわかるというのです。
 ガラテア書の5章19節から28節に書かれていますが、悪い実というのは、肉の業でありまして、猥褻、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その類の物です。良い実と言うのは、霊の結ぶ実で、それは愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありませんと語られます。
 わたし達は、自分の進むべき道、生きる目的を考えるとき、こういう視点で見ているでしょうか。つまり、自分の人生という実、の結末を『愛』とか『喜び』『平和』『寛容』『親切』『善意』『誠実』『柔和』『節制』へと向かうように考えているでしょうか。あまり考えないで、自分の好きなこと、自己実現すること、名を残すこと、人を支配すること、財を蓄えること、などを目指してはいないでしょうか? 自分を満足させるようなことを目的にしてはいないでしょうか?とても反省させあれるところです。
 現代社会はどうでしょうか? 日本をみても、日本の行く末を『愛』とか『喜び』『平和』『寛容』『親切』『善意』『誠実』『柔和』『節制』へ歩むようにと考えて国民として暮らしている人々はいるのでしょうか。そういうことではなくて、借金を減らすための行政改革のように思われますし、目の前の問題をその場しのぎに対応することに汲々としているようで、どこに向かって我々が進むべきか、大きな理念や目標が見えなくなっているようですし、そういうことを真剣に思って暮らしているのかどうかも分からない感じがします。
 イエスはどこに向かって、私たちが進むべきかをはっきり示して下さったのだと思います。イエスという良い木に繋がっていれば、わたし達は『愛』とか『喜び』『平和』『寛容』『親切』『善意』『誠実』『柔和』『節制』へと向かっていくことができるのだと語られているように思います。
 蝮の子らよ、あなたがたは悪い子であるのにどうして良いことが言えようか、と語られます。これは、ファリサイ派の方々に向けて語られたことばですが、人間の力で自分の生を守り、導き、支えようとする、高慢な人間に投げかけられたことばでしょう。人間は自分の力で生まれることも、育つことも、生きる続けることもできないのに、まるで、それができているかのように思う人間の的外れな思い上がりや神の支えによって生かされていることが気づけないでいる我々への警告でもある様に思います。人間の暮らしには肉の業、猥褻、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その類の物が多く潜んでいるのではないでしょうか。少なくとも自分の本質を探るとその通りだと認めざるを得ないところがあり、恥じ入るばかりです。ニュースなどでも、最近は摂理と言うカルト教団が報道されていましたし、レバノンとイスラエルの戦争、幼い子どもを車に乗せたままパチンコをする親、低所得者の増加、うつや自殺者が年間3万人を超すという社会環境、手抜き仕事やそうせざる終えない状況、環境破壊、無駄使いなどなど、現代社会の結ぶ実は決して良い実と思えないものが多くあります。
闇の世とも考えられる状況でもあると思います。
 しかし、本日の聖書では、36節、「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」とあります。裁かれるというのです。肉の業、猥褻、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その類の物の責任を問われる。裁かれるというのです。それがどんなに小さい物でも裁かれる。私の悪い実について裁かれるというのです。そらく、それは、火と硫黄の池(ヨハネの黙示録21:8)で永遠に焼きつくされてしまうというのでしょう。歯軋りするのでしょう。肉の業でありまして、猥褻、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その類の物が、こんなことをしなければよかった、こんなことはもうやらない、とうように、徹底的に否定されて、永遠に消されてしまうということでしょう。これは恵みと思います。イエスを十字架につけ、神を否定した自分がいなくなる。ということは、神を肯定する人として神と共に生きるものとされるときが来ると言うことを話されているのだと思います。闇のときを不思議に(イエスの十字架の購いによって)生きている私たちですが、いずれ、裁きのときがきて、肉の業でありまして、猥褻、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その類の物、これは人が死に結びつく実であり、そういう死が永遠になくなって、そして、『愛』とか『喜び』『平和』『寛容』『親切』『善意』『誠実』『柔和』『節制』の実これは「生」を支える実でありまして、それを結ぶ私、私たち、永遠に生きる私たちになるという希望が与えられていると思います。
 十字架につけた私たちが、神を否定する私たちが、しかし、なぜ、そのようなことを知ることができるのでしょうか。それは、聖霊の働きによるのでしょう。今、わたし達は聖霊を受けて、聖書を通して、イエスのこと、イエスのことばを聴いています。神を否定する者が神を信じることのできる、矛盾は人間業ではありません。聖霊の働きだと思います。
後に起こることを聖霊を受けた者は先取りして知らされています。ですから、良い木、良い実とは何かを聖霊を受けた者だけが知りうることもできるのだと思います。
 今朝、良い実と良い実について知ることができました。わたし達は良い木につながり、良い実を結びたい者です。良い物を入れた倉から良い物を取り出していきたいと思います。良い木とはイエス、良いものが入った倉とはイエスです。このイエスに学び、イエスから頂いている『愛』とか『喜び』『平和』『寛容』『親切』『善意』『誠実』『柔和』『節制』を取り出して、私たちの生きる目的、生きる糧としていきたいと思います。また、今、闇の中にあり、罪美であるにも関わらず、良い木イエスについて知ることができ、良い実を結び生きることできるようにさせていただいている聖霊に感謝していきたいと思います。