マタイによる福音書10:32-33
「だから、だれでも人々の前で自分を私の仲間だと言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人を私の仲間であると言い表す。しかし、人々の前で私を知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」
本日の聖書の箇所は、イエスからイエスの仲間と言えるか?と言う問われているような内容です。仲間であれば、仲間であるとイエスもいい、仲間でないと言うのなら、仲間でないと言う。イエスは語ります。イエスが仲間かどうかは私自身のイエスに対する意志で気持ちで決まるということが示されています。イエスを自分の仲間とするかどうかは自分たち人側の自由であるということが語られているように思われます。
自分にとってのイエスは十字架につけられたイエスです。イエスは全人類の罪を贖った方です。私を救ったとまではいえますが、果たして私はイエスの仲間であろうかと思うと、仲間であるとは残念ながら言い切ることができません。私の祈りを聞き、助けてくださるであろう依存的な存在ではあっても、私がイエスの仲間であろうか、イエスと共に人類の救いのため、十字架に共につくもであろうか、と問われると、それは違うのではないかと思ってしまいます。自分の都合のよいようししてくださるから、イエスを仲間としておこうとは思っても、十字架についたイエス、世の罪びととして葬られるイエスの前では、おそらく、私はイエスは私の仲間ではない。葬ってくださいという人でしょう。マタイ26章31節~35節ペテロは始めは、イエスについて、「イエスのことを知らないなどと決して言わない」と話していました。弟子たちもみなそう言いました。
ところが十字架にイエスがかけられるというとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて逃げてしまったということ(26章56節)が記されています。また、ペテロは、鶏が鳴く前にイエスを知らないと話されています。そして実際にイエスを知らないと話してイエスを裏切ってしまったのでした。
人の力は弱い物です。調子のいいときはやれると思ってもいざ、問題が起こり、体調が悪くなったりすると何もできなくなってしまいます。イエスを仲間だと言い表すことについても同様です。
しかし、イエスは自分のどんなことをもご存知です。30節に「あなたがたの髪の毛1本のこらず数えられている。だから恐れるな。あなたがたはたくさんの雀よりもはるかに勝っている」と言われています。なにについて勝っているのかといいますと、それは、愛することにおいて勝っているのであって、人を大切にすることにおいて勝っているのであって、罪を悔い改めることにおいて勝っているのであって、平和を築くことにおいて勝っているということを、話されているのだと思います。
つまり、イエスの仲間だといい表すことにおいても勝っているということなのだと思います。

この矛盾する事柄。人はイエスの仲間だ言い表す何物をも持っていないこと、しかし、人はイエスの仲間だと言い表すことができるようにも聖書に書かれていることは、使途言行録の五旬節の聖霊降臨の出来事から明らかにされることです。エルサレムでの出来事でした。聖霊が注がれると、弟子を含め、イエスが救い主であるということを伝え始めてしまいました。自分自身がイエスの仲間だということを伝え始めてしまったのです。

イエスの力が私たちに働いたときに、わたし達はイエスの仲間だということを伝えることができるのでしょう。パウロもしかりでした。

さて、イエスの仲間になるとどういう状態になるのでしょうか。聖霊が注がれると、イエスが救い主であるということがわかるということですが、ヨハネの福音書の16章5節から15節に書かれていますが、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにするとあり、罪については、人がイエスを信じないこと、義については、イエスが父のもとにいき、わたし達はイエスをみなくなること、裁きについては世の支配者が断罪されることというように示しています。真理の霊(つまり聖霊)が来るとことごとく、真理を悟らせる、というようにも書かれています。
ですから、わたし達は聖霊を受けて、自分の罪を知り、イエスの正しさを知り、
世の中を支配する力が断罪されることを知り、或いは、経験するのではないでしょうか?

イエスは社会的弱者の側に徹底的に立たれた方であったと思います。十字架という罪を負いました。これは、社会が、人を排除する仕組みの一つです。イエスは十字架によって、社会的弱者を大切にせよ、というメッセージを社会的強者に向かって発したのではないでしょうか。しかし、社会的強者が社会的弱者のために生きるのは疑問を感じることがあるでしょう。強者も弱者も共にと思うかもしれません。しかし、イエスだけは譲りませんでした。最強の強者である神が、人間社会におけるの最低の弱者の立場に立たれて、イエスの十字架につかれたのです。ですから、イエスの仲間であるということを言い表すには、自分より社会的弱者と思われるもの、本当に助けを求める者へ、手を差し伸べる、この地で少しでも満足して生きていけるように配慮する行動をとられていくように思います。

イエスの仲間であるとは人の力だけでは言い表すことができません。しかし、聖霊を受けることでわたし達は、イエスの仲間であるということを言い表すことができ、社会的弱者へ配慮、共に生きようとする配慮をせざるを得なくなる状況に立たされていくことになると思います。それはもしかすると、自分にとってはとても辛いことかもしれません。どうして、自分や家族にこんな試練を与えるのかと思われることがあるかもしれません。仕事においてもどうしてこんなに苦しい思いや、金銭的には貧しい報酬をと思うことかもしれません。地域生活においてもなぜ、私だけ重荷を負わなければならないことがあるかと思うことがあるかもしれません。しかし、わたしはそういうときこそ、聖霊が働いているのではないかと思います。そういうときこそ、いよいよ祈らざるを得なくなるではないでしょうか?そういうときこそ、イエスの十字架の苦しみが、自分の苦しみと重なるのではないでしょうか?そういうときこそ、イエスが仲間だとやっと分かるのではないでしょうか?

イエスは、私たちに決して都合のよいようにはいかないことをたくさんなされます。むしろ思い通りに行かない道を与えます。そして、神を憎ませさえするかもしれません。しかし、イエスは私たちを、本当に満ち足りた道、人生を送らせようとしていると思います。自分を愛するように隣人を愛する、隣人と友になるという人生。しかし、真にこの道を歩むことは、イエス、聖霊なくてはできないことです。イエスの仲間でなければできないことなのです。
本日の聖書は、イエスの仲間となることは、世には辛いことも起こり、できれば、仲間でないといった方が楽にみえるだろう。しかし、本当に自分の人生を満ち足りた物にするには、家族の人生、地域社会の人生といいましょうか営みを満ち足りたものにするには、イエスの仲間でないとできないことなのですよ。ということを伝えて下さっているのだと思います。弱い自分がそういうことを実践していくためには聖霊を受けることが必要だということも聖書から加えてお話させていただきました。本日はペンテコステ礼拝です。聖霊を受けて、イエスの仲間として暮らしていきましょう。

祈ります。