マタイによる福音書10章16節から25節 逃げよ
負けるが勝ちとか逃げるが勝ちという言葉があります。私を牧師とした先輩牧師の中にも「負けて勝つ」といったことを語られた人もおりました。
本日の聖書の箇所では迫害にあったら、逃げよ、と教えられています。迫害にあったら抵抗して相手をやっつけてしまう、という勇ましいことは、大抵の人なら考えることでしょう。そして、自分が正しいと思っていることならなお更です。
しかし、本日の聖書の箇所では、迫害を受けたら他の町に逃げよ、と逃げることを積極的に勧めています。
蛇のように賢く、はとのように素直になりなさいというのは、逃げることにおいてです。
さて、蛇のように賢くとはどういうことでしょうか。
それは、迫害、について賢くなれ、ということです。迫害とはどういうことかを良く知れということです。イエスを迫害する、イエスを排除しようとすることが迫害だということです。愛することを否定する、人を大切にすることを否定する、暴力、戦争、そういうことを肯定することが、迫害、とも考えられるでしょう。そういう、迫害にあったなら、逃げよ、と話されます。迫害に手向かうことはないということです。逃げてよいのです。
最近ドメスティックバイオレンスが問題となっていますね。私も5,6年前、家庭内暴力で気仙沼に逃げてきた夫婦を知っています。長男さんからDVを受けて、逃げてきました。子を愛する親にしてみればとても残念なことだったでしょう。しかし、DVは精神科領域では立派な病気として上げられており、逃げてくるのが、正しい対処法とされているようです。敵を愛せと申します。迫害を受けることが愛することでしょうか?自分を愛するように隣人を愛する場合、迫害は自己を滅ぼすことになります。そういうことをさせてはいけない。迫害を受けてはいけない、逃げるの道があるのです。ですから、狼のようになる人間、人を襲う人間に注意せよと話すわけです。それが、地域生活でのことかもしれないし、地方自治体でのことかもしれない、また、異国でのことかもしれない、また、兄弟姉妹、親子の中で生じることさえありうるかもしれない。すべての人にそのような迫害を行う可能性はある。なぜなら、すべての人は罪びとだから、イエスを十字架につけた張本人だからです。迫害行為。これを賢く悟り、そして、気づいたらそこから逃げよ、という。
キリスト者の迫害についてここでは語ります。
現在でも、経済最優先の時代に、真っ正直に金より愛だ、と言ってさらに、実践すれば、迫害に遭うでしょう。文無しよされ、と恋人もできないでしょう。迫害に遭います。長生きはできません。それをまっとうされたのが、イエスの十字架でありました。ですから、イエスキリストを信じ、他者を愛していった場合、迫害を必ず、受けます。苦しみを受けます。イエスキリストはここでなんと言っているかと申しますと、迫害は受けずに逃げろ、と話されています。自分が十字架を負ったではないか、弟子であるあなたがたも私に従ってくるなら、迫害を受ける、しかし、にげなない。弟子は師のようにはなれない、僕は主人に勝るものではない。十字架の苦しみを受ける必要はない。多少、少しだけ苦しみを負いなさい。あとは、イエスが負ってくれるているから、逃げなさい。そして、人の子がきてなんとかしてくれるから、安心していなさい。ということを話しているのだと思います。
パウロはローマ人への手紙12章9節から21節で講話しています。
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬を持って互いに相手を優れた物と思いなさい。怠らず、励み、霊に燃えて、主に仕えなささい。希望を持って喜び、たゆまず祈りなさい。聖なる者の貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすように努めなさいあなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい祝福を祈るのであって 呪ってはいけません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つとし、高ぶらず、身分の低い者と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮しなさい。愛する人たち、自分で復習せず、神の怒りに任せなさい。「『復習はわたしのすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく善をもって悪に勝ちなさい。
とあります。
ただ、逃げるだけではなく、パウロは逃げて、迫害する者のために祈ることしていたのでした。このパウロこそ、ナザレのイエスを信じるキリスト者を徹底的に迫害していた人でした。しかし、ご存知のように、復活の主イエスがパウロに現れ、イエスによってイエスを信じる使徒以上の働きをする弟子に変えられてしまったのです。
わたしは迫害に遭ったら、なさけない話ですが逃げるでしょう。
しかし、イエスご自身が迫害する者に現れて、その人が、イエスを信じ、隣人を愛するように変えてくださることを信じて、そのこと、つまり祝福を祈り続けていくことは忘れたくありません。お祈りします。
お祈りいたします。