身近なところで与える マタイ10:5-15

本日の聖書の箇所は、イエスが12人の弟子たちを派遣する場面が描かれています。
「外国へ行ってはならない。遠くへ行ってはならない。」注意を与えています。むしろ、自分の身近な人、貧しい人、困っている人のところへいって、「天の国は近づいた」と述べ伝えなさい」と勧めています。
更に、身近な人の「病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い出しなさい。ただで与えたのだから、ただで与えなさい」と勧めています。
また、持ち物については、何も持っていくな、と話しています。イエス・キリストの信仰だけを頼りにということなのでしょう。
「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人は誰なのかをよく調べ、旅立つときまでその人の下にとどまりなさい。その家に入ったなら。『平和があるように』と挨拶しなさい。
家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなた方の願う平和は与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなた方に帰ってくる。
あなた方を迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたなら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
はっきりいっておく、裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラのちのほうが軽い罰ですむ。」と話されています。

さて、ここでは、ごく、身近な人に平和があることを願っているわけです。そして、実際に平和になるということです。それには「病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い出しなさい。ただで与えたのだから、ただで与えなさい」というようなことがポイントとして上げられます。病気の人を癒したり、悪霊に取り付かれた人から悪霊を追い出すことをするとよいということです」その仕事はイエスから派遣された人には可能だということです。イエスの弟子とは、イエスの十字架の救いを信じる人です。そういう人には病を癒し、悪霊を追い出すことができ、平和を作り出すことが可能だということです。もちろんこれは人間の力では不可能です。イエスご自身が働いているということです。
また、イエスの弟子たちは、医師として有能だったわけでも、霊的な能力があったわけでも、学者でもありませんでした。ただ、イエスから「言葉をかけられた」方々でした。コリント信徒の手紙に書かれていますが、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い出してください。人間的にみて知恵ある者が多かったわけではなく、能力あるものや、家柄の良いものが多かったわけでもありません。
ところが神は知恵あるものに恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」とあります。またまた、更に「また、神は地位ある者を無力な者とするため、世に無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」
そしてパウロは結局何をいいたかったのかを述べます。
「神によって、あなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって、神の知恵となり、義と聖と購いとなられたのです」ということを語ります。
私たちの知恵はキリストであり、私たちの義はキリストであり、私たちの聖はキリストであり、私たちの購いはキリストであるということです。
ここの理解は難しいです。わたし達は、知恵あるようですが、それは、キリストから与えられたということではないでしょうか。わたし達は自分が正しいというのではなく、キリストから正しいことは何なのかを教えていただいているに過ぎない者なのではないでしょうか?わたし達は清いといいますが、清くさせていただいているのではないのでしょうか? わたし達は購うといいますが、キリストの購いを少しだけ真似をさせていただいているのではないのでしょうか? 肉も心も自分でできたものではありません。全部造られた者でしょう。わたし達はイエス・キリストによって造られた者です。だから、創り主イエスの言いつけに従うことが大切だと思いますし、信じることが大切だと思っています。
「信仰と希望、愛」この3つはいつまでも残る。その中で最も偉大な物は「愛」であると話されています。イエスも「自分を愛するように隣人を愛しなさい」「友となりなさい」などと勧めてくださっています。私たちに大切なことを話されています。現在、人間が経済最優先になってしまって、イエスが命じられている、「愛すること」「隣人を自分のように愛すること」「友となること」は忘れ去られようとしています。これが、もっとも大切なことだとイエスは教え、聖書は教えているのに、それを聴いて実行しようとしません。

私たちイエスの弟子となったものは、まず、そんなにたいした人ではありません。私を見ても分かるでしょう。寝坊をして、家のことはお袋と叔母に任せ、なんというぐうたら怠け者なのでしょう。しかし、私をイエスの弟子にイエスはしてくださいました。誠に、知恵あるもの、能力ある者、優秀な方々には申し訳ない限りです。そして、身近な者に福音を伝える仕事が与えられたように思います。何ももって来ませんでした。しかし、養われました。そして、どうにか仕事も与えられ、暮らしもなんと子できているような具合です。ありがたいことです。コレはイエスから頂いた恵みだと思います。母親、今は亡き父親には多大な犠牲をいただきました。イエスにも十字架と言う犠牲を頂きました。
本日の聖書は身近なイスラエルの伝道について書かれておりますが、私にとっては家に来て伝道するのと重なっています。そして、私を受け入れてくださったからには、平和を実現するように努めて生きたいと思います。願わくは全世界が平和になるように祈りつつ。
そういうものですから、私は身近なところから、友となるようになりたいものです。隣人を自分のように愛するようになりたいものです。家庭という身近なところから、平和がありますように、と挨拶し、祈っていきたいとと思います。平和がありますように。
祈ります。