マタイによる福音書 9章35-38節
収穫の主
最近、障碍者自立支援法が施行されて、福祉サーヴィスは商品とされてしまい、どんな重い障碍がある人でも原則1割負担にされてしまいました。本来、困っている人を無料で助けていくのが人の道だと思っていたのですが、困っている人を助けることさえ、有料となるということにおかしいと思わざるを得ない思いです。聖書にもよきサマリア人の手紙があるように、サマリア人は強盗にあったユダヤ人の医療費まで代わってやったではありませんか。
こうした世の中で、これからどうなっていくかが心配で不安になってしまいます。本日の聖書の箇所は私たちが今暮している状態と同じような状態に人々は置かれているのではないかと思えます。35節ですが、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、ありとあらゆる病気を癒された。また、群集が飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのをみて、深く憐れまれた。」とあります。イエスは神の国が来るということを伝えたのだと思います。山上の説教から始まって、神の愛が私たちに注がれているということ、私たちもその愛を知ったとき、敵をも愛するような、愛を実践すること、それが人の道であり、命であり、真理であること、たぶん、そういうことを伝えていったのでしょう。そして、同時に、実践として、特に、人々が近寄りたがらない、できれば、排除してしまいたい、病気や障碍のある方々を尊敬し、いたわり、癒されていった。神の愛を説くと同時に、この地で生きるのが困難と思われるような人に、生きることができるようにされていった、賛美さえ、するような喜びを人々に提供されていった。コレが、イエスがこの地でなさったことでした。
さて、ここに出てくる群集とはどういう人たちのことでしょうか?
病に苦しんでいる人たちでしょうか?そうでしょう。
罪びととして世の中から必要なしとされたひとたちでしょうか?たぶん、そうでしょう。
貧困で困っている人たちでしょうか? おそらくそうだと思います。
自分が〃生きていったらよいか分からない人たちでしょうか? そうだと思います。
自分が負け組みになったと思っている人たちでしょうか? そうだと思います。
ここにでてきている群集とは、「飼い主のいない羊のように、弱りはて、打ちひしがれている」者です。実際そういう身体状態にある人もいたでしょうが、心が精神が魂が弱りはて打ちひしがれている者、すべての人たちを言うのだと思います。そして、また、その群集とは、何も2000年前にいらしたナザレなどガリラヤ地方だけの群集のことでしょうか。
それは、違うと思います。この群集とは、全世界、全時代にわたって生きている、羊飼いのいない羊のようなもの、すべてのことを言っているのだと思います。
人とは、飼い主のいない羊のような者だとイエスは分かっていたのではないでしょうか?
人というのは、私も含め、皆さんも本当はどうやっていきていったらいいかわからない、誰をリーダーとしていったらいいかわからない、途方にくれている、迷える子羊だということをイエスは、知っており、私たちに知らせてくださったのではないでしょうか?
イエスを十字架につけたのは、私です。やってはけないことをやってしまっているのです。
真のリーダーはイエスなのに、私には必要ない、邪魔だ、悪い物だと呪い殺したのが、私の姿であるということを、イエスの十字架は私に、私自身を教えてくれているのです。イエスの十字架を信じることによって、はじめてそれが知りうるのです。イエスの十字架を信じなければ、自分の罪を知ることはできません。しかし、イエスは復活されました。復活を信仰することによって、イエスは私を愛することを止めないということがわかるのです。しかも、傷あるままで復活されたました。この傷は私がつけたものです。相変わらず、イエスを葬ろうとする、イエスにとっては敵である私を愛しているのです。
イエスから、イエスの敵である私はこのような愛を受けています。
イエスが深く憐れまれたということは、本当に頼りにしなければならないイエスを無視し、忘れ、邪魔者とし、殺してしまう、私を憐れまれたのだと思います。そして、群集も荘だった、人間すべても多かれ少なかれ、そのようなイエスと敵対する関係にあったのだと思われます。それを憐れまれたのだと思います。
聖書には「深く憐れまれた」と書かれています。これは、「はらわたが動かされる思いの感動」、断腸の思いをするくらいの「感動」を意味するそうです。羊飼いのない羊のようなわれわれをとっても放っておくことができない、そのために、自分が十字架にかかってまでも、救いたい、喜びを与えたい、幸せになってもらいたいと思ったということなのでしょう。
その後、イエスは「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と弟子たちに言われた。と書かれてあります。
この「収穫」というのは、「羊飼いのいない羊」「迷える子羊」つまり、罪びとであるすべての人類、です。収穫するとはそういうひつたちを救う、主の元に収穫する、主と共に暮らしていくことを示しています。そのための働き手を与えられるように祈りなさい、と語られます。働き手とは信仰者のことだと思います。イエスが救ってくださることに気づいた者を言うのだと思います。
悲惨にみえる不安に見えるこの地においても、やがて来る、神の国を知らせ、途方にくれている我々に対して、平和と喜びを先取りして暮していけるように、この地上においても恵みを受けていけるようにとのイエスの更なる配慮でありましょう。わたし達は、このイエスの恵みに気づき、この地においても喜びと感謝をもってくらしていきたいものです。
働き手とは、主をイエスを信じることです。仙台の長尾道子さんと言う人が、「信徒の友」という雑誌に載せられてある文をご紹介したいと思います。
収穫の主に収穫していたくことの感謝と働き手を送ってくださるように、つまり、ひとりでも多く方々がこの地においても、救われていること、恵みを受けて生きていることに気づくことができるように、祈っていきましょう。