マタイによる福音書9章32~34
これまで起こったことのない恵み
イエスキリストは、これまでイスラエルに起こったことのない恵みを与えたと聖書に書かれています。悪霊に取り付かれて口の利けない人から悪霊を追い出され、話をしだしてしまいました。群集は驚嘆し、こんなことはイスラエルでは起こったためしがない」と言われました。
話が出来るようになるのは言語聴覚士の仕事と同じようなすばらしいことだと思います。
私にはできませんが、イエスは話せるようにされたのですね。すばらしいことです。
そうは思うのですが、ファリサイ派の人々は「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言います。イエスの恵みはなんとさっぱり素晴らしさは認められないのです。
人間とは、人間が素晴らしいことを成し遂げられてもあまり真価を認めてくれないものなのですね。それは、自分にも当てはまることで、悔い改めなければなりません。
イエスは我々に、イスラエルではかつて見たこともない恵みをくださいました。それは、われわれの命が永遠の命に復活するという希望です。イエスの十字架によってなされた業です。しかし、われわれはその恵みをおぼろげに知りながら、信じ得ないで暮らす者なのではないでしょうか。
イスラエルの口を癒された人を見て、あれは神の業ではなく、悪霊の頭の仕業だと、悪霊と言うはっきりしない人間の作り出した観念のせいにしてしまう。私は、このイエスとの記事をみて、なんと人間、私の不信仰な者なのかということが、理解されます。
素直に神の恵みに気づけないなさけないもののように思われます。
しかし、イエスはそれでも恵みを私たちに与え続けてくださいます。どんなに、イエスを否定しようと、どんなに神をない物にしようと、イエスは十字架につくと言う大勝利をなされました。敵を愛すると言う、愛を示されました。その愛を受けているの、注がれているのが私たちなのです。そこに、気づいたときわたし達は感謝できます。そこに気づいたとき、わたし達は喜んでいることがでるでしょう。
内村鑑三は次のようなことを話されています。
世に僧まるる者
最も深く世を愛しているにも関わらず、最も深く世に憎まれることが多いのは、キリスト者である。最も多く世を益しているにもかかわらず、世に全く無益な存在だとみなされることが多い者はキリスト者である。 かれは世を愛することあまりに深いために、この世が嫌悪するようになり、 世を益することが、あまりに大きいために、世から退けられるようになる。 嫌われることはキリスト者の本性なのであって、世に愛せられるならば、かれはキリスト信徒たることができないのである。
イエスは私たちを、人知を超える愛で愛し抜かれたのだと思います。その愛は計り知れず、人はそれに気づくことさえ出来ません。只、信仰者はそれをおぼろげに気づいているのでしょう。
イエスは、口の聞けない人を癒されました。目が見えず、耳の聞こえない人も、悪例に取り付かれて凶暴になっている人々を癒されました。そばにおいでになって決して一人ではないと言うことをお伝えになり続けました。
わたし達は、このような恵みを受けています。
『足跡』マーガレット・パウワーズ作
ある人が、夜、夢を見た。
主と共に海辺を歩いている夢を。
彼の人生の様々のシーンが空を横切った。
それぞれの場面に応じて、砂の上に二人の足跡があった。
一つは彼のもので、もう一つは主の足跡だった。
彼の人生の最後のシーンが映し出されたとき、
彼は砂の上の足跡を振り返った。
彼の人生行路にそって、しばしばたった一人の足跡しかないのに気がついた。
しかもそれは、彼の人生で最も落胆し、最も辛い時期だった。
彼は当惑して主に尋ねた。
「主よ、わたしがあなたにお従いすると決心したとき、
いつも共に歩んでくださるといわれたではありませんか。
それなのに、
わたしの人生で最も苦しかったときには、
たった一人の足跡しかないのです。
わたしには理解できません。
わたしが最もあなたを必要としていたときに、
どうしてわたしをお見捨てになったのかということを。」
主は答えて言われた。
「わたしの大事な大事な子よ、
わたしはあなたを愛しており、決してあなたを見捨てることはありません。
あなたが試みと苦難の中にあったとき、
あなたがたった一人の足跡しか認めなかったとき、
それは、わたしがあなたを背負って歩いていたときだったのです。」
イエスさまは共にいてくださり、どんなときでも支えてくださっています。その大きな恵みを忘れずに、支えられていることに感謝し、願わくは自分も誰かを支える者でありたいと願います。