木で実を知る。

わたし達は信仰、信仰というあまり、クリスチャンだから、まあ、いいか、信仰しているからまあいいか、という具合に、何か信仰に甘えてしまっているような気がします。イエスさまを信じていれば、何やっても、大目にみてもらえるさ、と、自己中心性が益々ます結果になる場合もあり、特に私ですが、要注意だと思います。
信仰ということは信仰以外ありえないのでして、進行があるから、自分の好きなことをやっても赦されるだろうと、いうのは、「信仰」ではあいません。「自己中心」を増幅したに過ぎません。それはもうイエスを信じる行為から離れてしまっています。こういうのを偽キリスト、偽預言者というのでしょう。

その人が信仰者かどうかは、もちろん、神様しかわからいことですが、本日の聖書の箇所では、それは、実を見れば、人間でも、区別ができますよ、ということを教えて下さっているところです。

さて、それはどういう人なのかといいますと、
ガラテヤ書6章

愛すること
喜び
平和
親切
善意
誠実
柔和
節制

姦淫、
猥褻、
好色、
偶像礼拝
魔術
敵意
争い、
そねみ
妬み
怒り
利己心
不和
仲間争い
泥酔
酒宴