2005年11月3日から作成
断食をするときには(マタイによる福音書6:16-18)
イスラム教ではラマダンと言う時期があり、断食をするそうです。イスラムの断食月ラマダンにも大いに考えさせられる。イスラム暦第9の月ラマダンは、預言者ムハンマドが、天使ジブリールを通して断食をするように命ぜられたことに由来する。キリスト教が大天使ガブリエルと呼んでいる同じ天使の命令である。そのラマダン月の一ヶ月間、すべてのイスラム教徒は日の出から日没まで完全に飲食を断ち、身を慎む。ラマダンは自己反省と精神的鍛錬の期間であると同時に、貧しい人々の苦しみを体験することによって他者への思いやりを育む期間でもあるという。家族・親族や民族共同体の絆を強くする期間にもなっている。面白いことに、多くのイスラム教国では、ラマダン期間中の食糧消費量が普段の月の倍近くに増加する。日の出から日没までほとんどすべての人が完全に断食するわけだから、食糧消費量は少なくなって当たり前なのだが、そうならないのはそれなりの理由がある。一つは、ラマダン期間中は日没後の食事をいつもより豊かに楽しく家族や友人や近所の人たちと一緒に味わうという風習である。もう一つの理由は、貧しい人々の苦しみを体験することで育まれた他者への思いやりのゆえに、このラマダンの月には多くのイスラム教徒が大量に慈善の施しを行うことにある。自分が節制した分以上の食糧を施す結果、その月の食糧消費量は他の月よりも多くなる。そんなふうにラマダンには、共に断食をすることと共に楽しく食べること、共に分かち合うことが渾然一体となっている。このイスラムのラマダンを思うにつけ、そういう実に楽しく豊かな意味を持つ風習を忘れてしまったキリスト教に寂しさを抱かざるを得ない。と言う方もおります。
キリスト者でも断食をする方がおられますし、ダイエットするとして断食する方々もおります。また、糖尿のためにカロリー控えめ、腎臓が悪い人は塩分やカリウムが控えめ、人工透析する人は、水分500CC未満という方々もおります。ここでいう断食とは信仰に基づく断食と思われます。
イエスが問題にしている断食は、信仰的意味合いが強い断食であると思います。宗教的な動機で一定の期間、食事を断つことです。旧約の時代からすでに実践されており、モーセが、「40日40夜、パンも食べず、水も食べず、主の前にひれ伏した」とあります。これはイスラエルの民がエジプトからモーセに導かれたとき、シナイ山のふもとでイスラエルの民が神からの契約を石に刻み付けられるところがありますが、そのとき、モーセはその契約の石(十戒が書かれている)を神から頂くためのシナイ山に登りました。神様から頂く前に40日40夜、パンも水も飲まなかったと書かれています。また、この40日40夜の間にイスラエルの民は、金の子牛を作って、堕落してしまいました。モーセも授かった板を投げつけ砕いてしまいました。主が憤られたそのとき、モーセは40日40夜断食しました。モーセの執り成しの祈りなのですね。そして、主からもう一度契約の板を得たのでした。
新約でもイエスが、40日40夜断食したとありますし、新約聖書のなかにも出てきますし、ユダヤ教徒やイエスの弟子たちも断食を行なっていたようでした。(マタイによる福音書9章14節~ファリサイ派やヨハネの弟子について、使徒13章1-3)、また。イエス自身も悪霊に取り付けれた子ども癒されたとき、弟子たちに「この類の悪霊は祈りと断食によならなければ追い出だすことができない(マタイ17章21節異本にある文)と語られており、弟子に勧めさえされているように思われます。
さて、ここで断食ということを神の奇跡を呼び起こすための手段としてはいけないということを一つ注意しておきましょう。断食をすれば祈りが聞かれると言うことは間違いであって、断食しなくても祈りが聞かれるのです。
さて、ではなぜ、断食を勧めるようなことをイエスは語り、今日の聖書の箇所でも断食をするときの心得を書いているのでしょうか?
ここで断食ということをもう少し、考えて見たいのですが、断食とは食を得ないこと、ですから、死を意味することだというように捉えることができると思われます。断食とは生死に関わる極めて重要な事柄だということになると思います。
しかし、断食をするものの中には、自分の信仰心を見せびらかしたいと思う虚栄心があるものです。そういう、虚栄心や人からどう思われるか気にすることしかできない人たち、そういうふうに堕落していた方々に対して、忠告するわけです。
偽善者が行なう断食をさしています。偽善者は断食を人に見てもらおうとしてやっているということを語っています。つまり、賞賛を得ることを、人から褒められる事を目的にしてやっているということです。
しかし、イエスは言います。「断食をするとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにみているあなたの父に見ていただくためである。」と話されています。
また、なぜ、イエスは断食をすすめるのでしょうか?それは、食を断つという形式的なことのみを話しているのでしょうか?イエスが求める断食とは何なんでしょうか?
こういう問いには、イザヤ書58章が答えてくれているように思われます。
イザヤ書58章4節からお読みします。
みよ。お前たちは断食をしながら、争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちがいましているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食、苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それを、お前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。
私の選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を立ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に合えば、衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。
イエスはこのことを言いたかったのだと思います。私たちに本当にしてほしいことは、上記のようなことではなかったのではないでしょうか。
悪による束縛を立ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に合えば、衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。
これが断食が意味することではないでしょうか。我々が食を断ってまですべきことなのではないでしょうか。人生の目的なのかもしれません。生死をかけてやるべきものなのかもしれません。
イエスキリストを私たちの主とするものが与えられる聖餐式があります。イエス・キリストの肉を食べ、血を食すとされています。イエスキリストのなされた人に対する行為は誠にわれわれへ自分の生身を食物として提供された行為でした。イエス・キリストが人の生贄となりました。真実の神は我々の生贄となりました。しかも、イエスを裏切る罪深い我々の食料、生きる糧となったのです。
我々はもはや滅びることはあいでしょう。神であるイエス・キリストの肉と血を頂いているのですから。死があったとしてもそれはこの世のことだけで、イエス・キリストの支配する世彼方では永遠に生き続けることになるでしょう。
そういう状態に置かれている視点から、イエスが語る断食について、みてみますと、
「悪による束縛を立ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に合えば、衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。」
我々に食を断って苦しめと言うことを話しているのではありません。悪や虐げられている方々、不当な支配に苦しんでいる方々をなんとかせよ、苦しみをなくして暮せるようにせよ。と語っているのです。なんと、私たち思いのイエスでしょうか!
このことをなされたイエスの十字架に目を
注ぎ、イエスの求める断食を他者に気づかれないように、集中して行なっていきたくなるものです。
悪による束縛を立ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に合えば、衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。
これがイエスの求める断食です。
祈ります。