マタイによる福音書6章1節 善行をするときには
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」
と本日の聖書にあります。
隠れたことろで、善行をしなさいということを語られているように思います。
一般、私たちは隠れたところでしていることは、悪いことが多いです。
気仙沼市でも、衛生処理組合の会計の女の人が10年以上も仕事をしていましたが、2億円以上も、横領していたことがばれてしまいました。誰も見ていないところでは、人は悪いことをするようにできているようですね。私も病院では個室が与えられて、いますが、誰もみていないので、勤務中、時々、眠ってしまうことがあります。その後、ああ悪いことをしてしまった。見つかったらやばかったな、と思ったりもするのです。
聖書では善行をするときには隠れてしなさいと話す。隠れたときにこそ善行を行え、と進めているようです。
マタイによる福音書の25章31-46にありますが、「人の子は、栄光に輝いて天使たちをみな従えてくるとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。
そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしてたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてきてくれたからだ』
すると正しい人たちが王に答える。
『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お尋ねしたでしょうか』そこで王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから王は左側にいる人たちにも言う。『呪われたものども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であたり、牢におられたりするのをみて、お世話をしなかったでしょうか』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである。』
こうして、このものどもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命に預かるのである。
この最も小さい者とは誰でしょうか?
聖書から考えますと、3つのタイプがあるように思われます。
一つは、乳飲み子のように弱い者やそういう弱いかたがたを受け入れる者、2つ目には自分の罪に打ちひしがれる者、
3つ目は、よきサマリヤ人の話に出てくる例をあげますと、不条理な災難を負っているような者、そういう人を受け入れたり、支えたり、助けたりするする人々であると思います。(乳飲み子を受け入れる人や、サマリヤ人は助けるという強い行為に思えますが、弱ささや、他者の怪我を自分も担ったとなれば、弱いもの、小さい者になったということでしょう。)このいずれの人たちも天の国に入れる、あるいは義とされるとと聖書では語られています。ですから、このもっとも小さき者というのは特定の人というわけではなく、私が生活の場で出会う「他者」ということになると思います。
善行というのは、25章などからみてみますと、実際に飢えたり、渇いたり、旅人だったり、裸であったり、病気であったり、牢に入れられた方々に対する世話をしたかどうかの「行い」を問うているかというと、どうも、違うように思います。永遠の罰を受ける人もそういうことはしたと話されています。
さて、イエスのいう善行とは、他者への善行とは、どういうことでしょうか?
それは、他者への思いやりがあるかないか、という点ではないかと思うのです。隠れたところとは人が見ていないところ、自分の心の中という意味だと思います。他者への思いやりをもって善行をせよ、とだけ、いいたかったのでしょう。
私たちは善行を行うことができる人間であると同時にまた、その善行を他人に評価してもらいたいと思っております。だから、私のような不純な人間にはせめて、人に見られないように善行なり、施しをしなさい、といったのだと思います。イエスの時代、エルサレムなどでは,会堂で献金の際に、各自が前に出ていくら捧げたかを告げるというような習慣があったところもあったようです。特に高額な献金だと、執事がラッパをふきならすようなことをしてもおかしくなかった、という研究者(シラッター)もおりました。献金をするときにラッパを吹き鳴らして、献金することを見せびらかしていたユダヤ人がいたようです。
そういうこともあったため、イエスは善行、施しをするときは、見せびらかすなと注意下のだとおもいます。
聖書をみますと、善行かどうかを評価するのは神であるということがわかります。最終的に終末に人間が永遠の命に入れるかどうかを問われる重要な行為であるように受け取ることができます。
また、この行為はわれわれ人間が生きていくうえで必要な行為のようにも思われます。施しといえば、善行に聞こえますが、赤ん坊にお乳を与えたり、子育てをしたりすることも、施しといえば施しでしょう。弱者に対する支援もそうでしょうし、病気のときの看病もそうでしょうし、地震などで被災された方々の復興活動もそうでしょうし、世の中から罪人となったときのその人を大切に思う人権の尊重といいましょうかそういうことも善行であると聖書は語っていると思われます。私たちが暮らしていくには、多かれ少なかれ、他者からの善行が必要になってくる、お互い様のことではないのでしょうか。また、赤ん坊など弱者と思われる人たちからも自分の暮らしの中に潤いを施される、もちつもたれつの関係にあるように思われ、人間にとって一方的施しというのはないのではないかと思います。日本の国も大きな負債を抱えて出しか成り立っていないことも、施しを受けている国家といてもいいかもしれません。私たちすべては生きていくためには、善行を、施しを必要としていると思われます。
それを偽善者たちのように人からほめられようとして、会堂や街角でラッパを吹き鳴らしてはいけないと人から評価をもらうためにしてはならないと注意されていますが、善行が人が生きるために空気や水と同じように必要なことそう考えると、本日の聖書の箇所も納得いく、あたりまえのことのように思われます。
また、私たちは、イエスの一方的な恵みによって生かされているものです。十字架によって罪あがなわれ、生かされているものです。われわれが施されている立場にあるともいえます。
しかし、われわれはそのことを忘れてしまうと、人から善行を評価されたい、いい人間と思われたいなどと、他者の評価を得たいと思う名誉欲に縛られてしまうのでしょう。
善行とは関係ないかも知れませんが、私は以前、陸上競技をしていました。自分の力を集中して出そうと思うときは、観戦者がいない方がとてもやりやすかったです。あるいは観戦者を無視したほうが集中できていい結果がだせました。
イエスはわれわれに本当の意味で善行を行ってほしいと思っているのかもしれません。ただ、援助するそのことのみのことを考えて、他者を助けることだけに集中してほしいと思っているのかもしれません。なぜなら、その行為こそ人間が生きていくことに絶対欠かすことができないものであるから、それなくしては人間は本当は生きていけないものだから、人々が生きていくにはまた喜びを持って、感謝をもって生きていくには欠かすことのできないものだから、イエスはわれわれに注意してくれているのかもしれません。
この箇所からわれわれの日々の何気ない暮らしの目的が問われているように思うのです。
われわれの暮らしは自分が他者から評価されるために暮らすのか、他者を助け、支えるために暮らすのか・・・こうとわれれば、他者を助ける、支えるためであるということがわかるのですが、往々にしてわれわれは忘れているものなのですね。
主イエスの十字架の救いを思うとき、わたしはただの罪びとであり、われわれの暮らしは他者を支えるためにあるということ、決して自分を善人として他者から認めていただくことではないということに気づかされます。また、その日常の些細なことが実は永遠の命につながる重要な大切なことであるということに気づかされます。
この世に最も小さい者、そこに、イエスがおられることを思うとき、ただ、ただ、隣人である小さきものに思いやりのある自分でありたいと思います。