歴代誌上1章1~9章
ヨハネによる福音書9章1~12節
説教 平和の共同体の心得「受難からの救い」

平和の共同体を形成するヒントを得るために旧約聖書を読んでまいりました。列王記が終わり、歴代誌に入るかどうか迷いましたが、歴代誌に入ることにしました。なぜなら、最近、財務省で公的文書の改ざんが報じられているからです。実は歴代誌は列王記などの資料の改ざん聖書とも解釈できるのです。「改ざん文書」という共通点が丁度この時期、たまたま、財務省の文書と歴代誌という文書にあると思い、歴代誌に進みました。

歴代誌には、ダビデのバトシェバへの姦淫やその夫ウリヤの殺害、ソロモンの背教については記載されておらず、ダビデ王やソロモン王が理想化され彼らによって作られたエルサレムの神殿と祭儀を正統的伝統として描かれているようです。その他にも編集者の思想に合わせた改ざんも多くあるのです。歴代誌の主要な主題はダビデ王朝とエルサレム神殿の歴史。内容としては、アダムからバビロニア捕囚からの解放後までの人類とイスラエル民族の歴史の膨大な系図と人名表(1章から9章)、ダビデ王朝とエルサレム神殿の歴史、最後の部分ではペルシャ王キュロスによるバビロニア捕囚からの解放とエルサレム神殿の再建の奨励が記されています。歴代誌の編集者は同時代の読者に歴史を典型的なもの(主に従えばこの世での受難から救われるー私小野寺解釈)として示し、そこから、いかに生きるべきかと言う教訓を読み取らせようとしており、それゆえ、歴代誌は、歴史記述の形を借りたひとつの長大な説教であるとも言えるようです(新共同訳旧約聖書注解Ⅰ,p655-671)。

歴代誌編集者が、改ざんしても言いたかったこと。それは、神は受難する人々を救うということであったと思います。歴代誌はバビロニア捕囚からの解放後書かれたようです。本日の歴代誌には系図が示されてあります。これら系図をみて私は驚きます。神様はこれだけ多くのイスラエルの民と関わり、守り、祝福されてきたことを強く訴えているようです。よくも9章にわたってまで系図が書けるものです。私の系図を書けと言われても数行で終わってしまいます。歴代誌の編集者はイスラエルの民は、アダム以来神と共に生き、バビロニア捕囚という絶体絶命の状態にあっても解放される歴史を持つことを示し、神の言葉に従って生きる重要性を示すために編集していったのでしょう。

本日のヨハネによる福音書には生まれつきの盲人を見かけた弟子たちがイエスに問う場面が描かれています。弟子はイエスに「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」と尋ねました。イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に表れるためである」と答えて盲人の目を見えるようにしました。ここを読んで、神の業とは受難からの救いなのではないかと思うのです。

病や災害など自分の意志ではどうにもならない災難が降りかかってきた受難のとき、私たちはなぜ、自分が受難しなければならないのか理由を知りたがります。自分や両親や先祖が何か悪いことをしたからではないかと思ったりもします。しかし、聖書ではそれを否定します。本日のイエスははっきりと受難は本人や両親、もちろん先祖の罪の為ではない、罪の罰ではないと言い切ります。そして、その受難を受けた者に神の業が現れる為であると言い、盲人の目を開き、受難から救い出しました。受難は受難でしかないと思います。受難を受ける理由などまったくありません。理由がない災難を受難と言うのだと思います。そして、この世は自然災害や人的災害(破壊行動)を受けるような世になっているのだと思います。神の業はそれに対して救いの業を提供するということでしょう。

聖書を改ざんしてまで言いたかったことは受難している人々を救う神が私たちと共にいるということ。決して、政権者の都合に合わせるためではございません。そして、私たちもそのような神様の言葉に耳を傾け、受難している人を助けていくのが私たちの生き方だと思います。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わなければならない(ヨハネ福音書9章4節)」ともイエスが言われているからです。

みなさまの祝福をお祈りします。