聖書 列王記下20章1~20節(旧約p614)
ヨハネによる福音書11章1~57(新約p188)
説教 平和の共同体の心得「個の命が一番大切」
聖書を読んでいますと、最近、個々人一人一人の命がもっとも大切なことだと聖書が言っているように思えてきました。イエスが私たちに与える「永遠の命」も個に与える「命」ですし。
本日の列王記下にはヒゼキア王の死の病からの癒しが描かれています。主に従い歩んだヒゼキアは39歳の時に死の病にかかり、預言者イザヤを通して主から死ぬことを宣言されます。それを聞いたヒゼキヤは「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなうよいことを行ってきたことを思い起こしてください」と祈り、涙を流して泣きました。主は祈りを聞かれ、3日で癒され、主の神殿に上れるようにしてくださいました。その徴として日時計を15度戻したのです。そして、15年長く命を得させてくださいました。ここは、タイムスリップさせたなんとSFのような出来事です。自然現象を変更してまでもヒゼキヤの命を引き延ばす神の命への愛しみが伺えるところです。その後、バビロニアの王がヒゼキヤ王の見舞いに訪問した際、王宮にあるものをすべて見せました。そのことが原因で、ヒゼキヤはイザヤを通し、「王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものがことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る。あなたから生まれた息子の中には、バビロンの王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされるもの者いる」と主から言われてしまいます。ヒゼキヤはここでは無念とは思わず、「あなたの告げる言葉はありがたいものです」と感謝を宣べるのです。ここは不思議に思われるかと思いますが、財宝や国家組織をなくしたとしても個の命が守られることを何より優先する思想が伺えます。
新約聖書のヨハネによる福音書11章はラザロというユダヤ人男性(死後4日も経っていて墓に入っていた)を生き返させた奇跡の場面です。この蘇りの奇跡を素晴らしいと思い、イエスを救い主と信じるユダヤ人も多くいました。ところが祭司長たちやファリサイ派の人々はイエスのこのような状態をみて、最高法院(サンヘドリン:ローマ帝国支配下のユダヤにおける最高裁判権をもった宗教的・政治的自治組織)で「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまう」と言う意見やカイアファと言う大祭司は「あなたがたは何もわかっていない。一人の人間が民の代わり死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だと考えないのか。」と話しました。ここのユダヤ人指導者たちは神殿を守ったり、体制を守ったり、自分達の都合に合わせた考え方をしています。全体的形式、多数者が滅びなければ、一人が滅んでも良いという全体主位的、権力志向的な考え方です。恐ろしいことです(こういう考え方は実は私の中にもあるのです。これは罪。十戒違反)。そして、彼らは自分達から人々が離れていくことを防ぐためにイエスやラザロを殺害しようとするのです(ヨハネによる福音書12章9~11節)。イエスはどんな小さな命であろうとも(否小さいがこそ!)一人の命を慈しみ、その命が守られるために神殿があり、全体の組織もそのためにあるということを、最高法院のメンバーにここで主張しているかのように思います。一人の命の継続の方が最高法院の継続より重要だ、一人の命を守れない最高法院はなくなればよいのだとさえ、聖書は語っているように思います。ラザロを蘇らせたのはイエスが(聖書記者も)個の命を尊重していたからにほかならないと私は受け止めています。
以上、本日の聖書から考えてみますと、最も重要なことは個の命を守ることで、そのための家庭や職場や地域にある組織、国家、もちろん教会、更に「神」でもあるのが本来あるべき姿なのだろうと思いました。しかし、個を大切にするよりも、形式的な全体的体裁を整えるために一人や二人の犠牲はしょうがないだろうというサタンの誘惑に私たちは駆られているのではないでしょうか。「主イエスの名によって命じる、サタンよされ!」この祈りなくして、まず最も第一に個を大切にする平和な社会は訪れないように思います。
みなさまの祝福を祈ります。