聖書 列王記下14章1~22節
マタイによる福音書6章33節
説教 平和の共同体の心得「神の国を求める」
列王記にはユダの王が20人、北イスラエルの王が19人に記されていますが、国を継続していくなかで、神の御心特に十戒に従うことに背いてしまうことが多く見られます。殺害、偶像礼拝、掠奪など多くに記事ができいます。本日の列王記下にはユダ王国9代目の王アマツヤと北イスラエル区国の12代目王ヨアシュの時代のことが描かれています。アマツヤは「父祖ダビデが行ったほどではないが、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。」(14:3)とあります。このアマツヤは、国内で父を殺害した家臣たちを粛清します、そして、周辺のエドム人10000人を打ち、「セラ」という都市を攻め落としています(掠奪ではありませんか)。更に北イスラエルの王ヨアシュ(「主の目に悪とされることを行った」と列王記下13章11節)と戦いを交えることになり、敗退します。その後、彼はユダのエルサレムで謀反に遭い、追われて殺害されてしまいました。当時の周辺の国々は興亡を繰り返していたわけですから、北イスラエル王国やユダ王国もその国々と同様な歩みをしてきたということにあるのでしょう。神に従う、従わないに関係なく、王国は継続していくことが列王記の中に見出されます。ここで重要なのは、北イスラエルやユダの王国には神発見者がいたということだとおもいます。最終的には旧約聖書にあるようにイスラエルの民による国家樹立は失敗に終わったという事なのですが、そのような失敗にあっても神を見出せた人々がいたということ、そして、聖書まで記載する人々がいたという事は、確かなことだと思いますし、信仰者の私にとっても、励まされることです。
新約聖書に入ると神によってなされる一般的な国家概念(軍事、領土、統治体制)はなくなり、代わってイエスは神の国の建設運動となっていきます。これは、重大な事柄ですが、さて、神の国はどういう国かと問われても、今の私にはまだ十分な答えが見いだせていません(すみません、勉強不足です)。イエスは神の国についてはたとえで話されることが多いです(種まき <マタイ 13:1、マルコ 4:1、ルカ 8:4> 、成長する種 <マルコ 4:26>、一粒の麦 <ヨハネ 12:24>、からし種 <マルコ 4:30、マタイ 13:31、ルカ 13:18>、パン種 <ルカ 13:20>、毒麦 <マタイ 13:24>、ともし火 <マタイ 5:14、マルコ 4:21、ルカ 8:16>、愚かな金持ち <ルカ 12:16>、仲間を赦さない家来(同僚の負債をきびしく取り立てる王のしもべ) <マタイ 18:23>、忠実なしもべと悪いしもべ <マタイ 24:45、ルカ 12:35>実のならないいちじくの木 <ルカ 13:6>、隠された宝 <マタイ 13:44>、真珠の商人 <マタイ 13:45>、網 <マタイ 13:47>、狭い戸口・狭い門 <ルカ 13:22、マタイ 7:13>、ぶどう園の労働者 <マタイ 20:1>、盛大な宴会・王子の婚宴 <ルカ 14:15、マタイ 22:1>不正な管理人 <ルカ 16:1>、ファリサイ派の人と徴税人 <ルカ 18:9>、預けたお金(タラントン、ムナ) <マタイ 25:14、ルカ 19:11>、ぶどう園の悪い小作人 <マルコ 12:1、マタイ 21:33、ルカ 20:9>、芽吹いたいちじくの木 <マルコ 13:28、マタイ 24:32、ルカ 21:29>、十人のおとめ <マタイ 25:1>、羊の囲い <ヨハネ 10:1>、良い羊飼い <ヨハネ 10:7>、ぶどうの木 <ヨハネ 15:1>
盗人 <マタイ 24:43>マタイ、以上Wikipediaより)。神の国は聖書編集者によって多様な考え方がなされているようですが、どれをみても神の国は軍隊もなし、領土もなし、人が人を統治することもありません。本日、私は一つ神の国のたとえを選ばせていただきますと、それは、マタイとマルコ、ルカの3福音書に共通して出てくる神の国のたとえは「からし種」のたとえです。「土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」というものです。からし種とは一人ひとりが受けた聖霊とかそれによって生じる一人ひとりの信仰とかだと思います。一人ひとりの信仰や一人ひとりに与えられた聖霊によって結び付けられる共同体が神の国だと思います。
聖書の別の個所を借りて説明すると、神の国とは、友となること(ヨハネ15章からイエスは弟子たちに愛し合うように命じ、イエスは弟子たちを「友」と呼んだ)によって結び付けられる共同体であるようにも思います。ここでいう神の国というのは、死後の世界というより、「愛の国」とでもいいましょうか、愛し合う場、支え合う場、赦し合う場であるようにも思います。それは私たちの間に(ルカ17:20-21)あるのでしょう。親子、夫婦、兄弟、友人、同僚などこの世の人々の関係性のなかに見出され、人間には「ああ、これが天国かな」とかぐらいにしか実感できないのかもしれません。友として愛し合うことが神の国なのであって、軍隊や領土や統治組織や財産があることではありません。軍隊や領土や統治組織や財産のために愛し合う事が破壊されては、神の国は成り立ちません。神の国のために軍隊や領土や組織や財産が用いられるべきなのではないのでしょうか(運隊は不要ですね)。すべては愛するため、友となるため、十戒をはじめとする神の言葉に従うということにあるのでしょうね。
みなさまの祝福を祈ります。