聖書 列王記下5章1節~27節
   マタイによる福音書2章1~12節
説教 平和の共同体の心得「神の恵みは宗教を超える」

 宗教が異なる人々が多い日本では葬儀に参加したときに例えば仏式の焼香をどのようにしようかと悩みます。和尚さんに聞いたら焼香は祈りだとのこと。一時は「クリスチャンだから焼香は遠慮します」などと言ってみたりしましたが、どうもご家族、親せきの方々に対して失礼かなと思うようになり、最近では焼香しつつ、主イエスに祈りを捧げるような具合になっています。また、私は地域の自治会の庶務をやっているのですが、毎年元旦に公会堂に自治会の方々が集まり、神棚に向かって拝礼をします。その進行係が私なのです。キリスト教の牧師なのに神道の拝礼の信仰係とはなんとも神様に申し訳ないと思いながら、日頃お世話になっている地域の方々との付き合いだから仕方ないと言い訳を考えたりしています。

 さて、本日の聖書には、そんな異教の人々と暮らす人に安心して信仰生活が送れるというメッセージが示されています。列王記下5章には異教の国アラムのナアマンという軍司令官が重い皮膚病にかかり、(北)イスラエルの国のエリシャの元に来て、エリシャの言いつけ通りにヨルダン川で7度身を洗ったら癒されたという話が記されています。そして、そのナアマンはイスラエルの神(ヤハウェ)意外神はないと分かったと語り、以後、主意外に捧げ物を捧げないとも語ります。しかし、ナアマンには主に赦してほしいことがありました。ナアマンは次のようにエリシャに語ります。「ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモン神の神殿に行ってひれ伏すとき、私は介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンでひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」なんと、主を信じている者が職務の都合上、偶像礼拝せざるを得ないことを赦せというのです。それに対してエリシャは「安心して行きなさい。」というのです。心配ご無用と。旧約聖書で事情があっての偶像礼拝を赦しているまれな個所です。主を救い主と信じえいれば形式上の宗教は問わないとでも語っているかのようです。

本日のマタイによる福音書にはイエスの誕生を知らされ、イエスに会いに来たのは東方の占星学者であったことが記されています。彼らはイスラエルの民ではありません。異教の人でしょう。彼らはイエスの誕生を知らされ、彼に会い、神として拝み、高価で貴重な黄金、乳香、没薬を捧げました。彼らはヘロデ王(恐らく彼らを逮捕してイエスを殺害しようとした)から逃れて自分の国へ帰りました。

以上のことから、神の恵みは宗教を超えているというメッセージを私は受け取ります。そのような神を信じていれば、仏式の葬儀の形ばかりの焼香も自治会の元旦の拝礼の進行係も赦されるんですね。このような寛大で寛容な神がいるということに安心します。そして、恵みは宗教を超えて与えられるような寛大で寛容な神なら周囲の方々にも知らせていきたいと思えるものです。

みなさまの祝福をお祈りします。