聖書 列王記上21章1節~43節
マルコによる福音書9章42~49節
説教 平和の共同体の心得「神の言葉=預言による悔い改め」
「叱ってくれる人がなくなったら探してでも見つけなさい」永六輔
「叱ってくれる人を持つことは大きな幸福である」松下幸之助
永六輔さんや松下幸之助さんには叱ってくれる人が必要だったり、叱ってくれる人がいることを幸福だと思っていたようです。叱るというのは、間違った道へ行くときに、違う、こっちだと導いてくれることを言っているのでしょう。裏を返して考えると、永六輔さんや松下幸之助さんは自分は誤ったことをしてしまう危険性をはらんでいることを自覚していた人のように思います。だから、その誤りを質してくれる人(叱る人)を必要としたり、幸福だと思えたりしたのでしょう。
聖書に出てくる預言者の言葉も人に対するお叱りみたいなものなのではないでしょうか。神の言葉は人間が思ったり行動したいと思ったりすることに対する、お叱りみたいなものです。十戒にせよ、愛せよという言葉にせよ、読み方によってはそうできないから叱られているようにも捉えられますね。
本日の列王記上21章には(北)イスラエルの王アハブとその妻イゼベルの極悪非道の物語が描かれています。イズレエル地方(ガリラヤ湖から西南約3・40㎞辺り)にイスラエルの民のオボトのブドウ畑がありました。この辺は穀倉地帯でもあり、神様がイスラエルの民に与えると言った「乳と蜜の流れる地」でもあったのでしょう。アハブ王はこのブドウ畑が宮殿の隣りにあったもので、欲しくて譲り受けようと別のよい土地を提供したり相当の代金を支払うとも言いだすのですが、ナボトは「先祖から伝わる嗣業の土地は譲ることはできない」と断りました。それに機嫌を悪くしたアハブ王は妻のイゼベルにこの出来事を伝えるとイゼベルはナボト殺害を企てました。しかも、ナボトは神と王を呪ったとでっち上げ、民衆の前で民衆によって殺害させたのです。こうして、アハブ王はこのブドウ畑を手に入れようとしました。しかし、その時、預言者エリアが神から遣わされ、アハブに「主なる神はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分の物にするのか。犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる。」と言うように示されました。イゼベルにも神の裁きの言葉が告げられました。アハブはこれらの言葉を聞くと、衣を裂き、粗布を身にまとって断食しました。彼は粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩きました。これを見た神はエリアに語ります。「彼がわたしの前にへりくだったので、わたしは彼が生きている間は災いを下さない」。つまり、悔い改めた場合は神からの災いは避けられるということです。神に対して悔い改めた場合の罪の赦しがここで示されています。この罪の赦しは人と人の間ではできないことでしょう。人の世界では犯した罪は最低償うということが常識だと思います。
本日のマルコによる福音書9章42節~50節ではイエスキリストも罪を犯した場合の人が人から受ける悲惨さを知ってのことか、罪を犯すくらいなら、手や足や目がない方がよいとさえ語っています。そして、罪を犯さないことは「塩」であると比喩的に表現され、それは、「生きることへの道」「神の国へ入ること」「平和への道」であるとも語っています。「自分自身に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に暮らしなさい(50節)」と結んでいます。
私たちの暮らしは罪への誘惑に満ちています。北朝鮮の核開発を留めるため、北朝鮮の為政者を「ならず者」呼ばわりし、最終的には殺害しても構わないと思ったり、経済が豊かにならないと恥ずかしいと思ったり、能力が人より抜きんでた方がよいと思ったりしてはいませんか。十戒を守ったり、敵を愛することや罪を赦すことが今自分がすることで一番大事なことだと思っていますか?
神の言葉は(聖霊もそうでしょうが)、罪の暮らしの中ではうざく、弱く、無視できるものです。人の言葉の方が惹きつけられると思います。しかし、人は神の言葉がないと誤った道に進んでいくように思います。神の言葉を聞き、悔い改めて、軌道修正していけると、私たちは平和な暮らしを実現できるということを本日の聖書から神様からのメッセージとして受け止めました。
昔も今もこの世に向かって神の言葉を語る預言者は平和実現のためには必須でしょう。教会は真っ先にその自覚をするべきですね。
みなさまの祝福をお祈りします。