列王記上19章1-21節
マルコによる福音書1章1-20節
題 平和の共同体の心得「単独者として」
キリスト者として単独者という生き方を示した人はデンマークのキルケゴールが有名です。
日本では内村鑑三もその道を歩んだ人だと思います。神の前に一人立つ信仰者。これが単独者です。20年くらい前、キルケゴールや内村のこの思想に触れ、私も単独者のキリスト者でありたいと思いました。教会組織や人間関係の煩わしさに自分の信じた道を見失いたくなかったからです。というより、自分の信仰に教会や他者は必要か?という問いに立たされたということです。当時は必要なしと思っていましたが、いまは必要なしとは言い切れないという風に変わってきましたが。それにしてもいまだに単独者として信仰者にあこがれを持っています。
さて、本日の列王記上19節には、預言者エリヤも単独者であったことが示されているようです。彼は450名のバアルの預言者と一人で対決し、勝利し、450名の預言者を葬ったことがフィクション的に18章に示されていますが、19節ではイゼベルというバアルの神の信仰者でイスラエル王アハブの妻の脅迫に怯え、逃げる様が描かれています。イゼベルは預言者ではありません。バアルの預言者450名を相手に勝利したエリヤが女性一人ごときになぜ怯えるのでしょうか。私はこの個所について、エリア一人で周囲のバアルの神の信仰者たちと対決した時の本当の状態を描いた場面ではないかと思うのです。周囲の権力者や庶民の多くがバアルの神を信じている環境において、イスラエルの神ヤハウェの神を信じていくには単独者と成らざるを得なかったということが描かれているのだと思います。多勢に無勢。しかも相手は王という権力者も。単独者には勝ち目はないのです。スーパーマンとか映画などフィクションの世界では「単独者」は勝利者になりますが、現実問題「単独者」には勝ち目はないのです。追いやられるのです。エリヤもイザベルの殺害予告を知らされるや否や直ちに逃げ、えにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言います。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖に勝るものではありません。」と。しかし、御使いに支えられながら、40日40夜歩き続け神の山ホレブに着き、神の言葉を聞きます。「ここで何をしているのか」。エリヤは自分一人だけがイスラエルの預言者となってしまった経過を神に語ります。イスラエルの民が裏切ってバアルの神に仕えるようになってしまったこと、イスラエルの預言者が同胞であるイスラエルの民によって剣にかけられ殺され、自分一人になってしまったことを神に語るのです。その時、神はエリヤにどうするべきかを語ってくれたのです。アラム(イスラエル民族ではない国)と北イスラエルの王に油を注ぎイスラエルの神に所属する者とし、味方につけ、エリシャという預言者の後継者を与えること、そして、イスラエルの民に悲劇が起こるにせよ、バアル信仰にならない7000人を残すというのです。7は完全数で無限を表します。限りなく多い人々がバアル信仰にはならず、イスラエルの神、ヤハウェの神を信じるようになることを告げるのです。
単独者たるところの恵みは神の言葉を聞くことが出来、それによって、信仰的希望が与えられるという事なのではないでしょうか。私はここの聖書の個所からそのように受けとめます。
本日のマルコによる福音書1章。一人イエスキリストが悔い改めの洗礼を受け、40日40夜サタンの誘惑を受け、イエスキリスト一人で行動し始めたことが書かれています。彼は何をしたのでしょう?イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えたのです(マルコ1:14)。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という内容でした(マルコ1:15)。さて、そうしていくうちにイエスは弟子を得ていくことになります。
神の前に立つとは言え、単独者は弱く、力がありません。王という権力者や支配者の対局にある支配される者でもありましょう。権力や支配を受け入れ従う道を選ぶ民衆や団結して権力や支配に対抗したりする周囲からも追いやられるのは目に見えています。まして、私など罪を犯す者。どうして、他者に受け入れられるというのでしょう。無理です。しかし、その時、神の言葉を聴くことができるのではないでしょうか。そして、単独者は神から指示を受け、行動することができるのではないでしょうか。それは「福音を宣べ伝えよ」「『悔い改めて福音を信じなさい』と言いなさい」というような指示(「神と人を愛していきなさい」という指示でもあるかもしれません)なのではないでしょうか。そうしていくとき、単独者たる信仰者が数限りなく増していくのだと本日の聖書の個所からのメッセージとして受け取ります。単独者たる私、ここに見る希望は、福音を信じ、悔い改める多くの方々の幸い、平和な共同体なのです。
皆様の祝福を祈ります。