列王記上17章1~24節
マルコによる福音書9章2~13節
説教 平和の共同体の心得「この世で救いをもたらす人々」
私は牧師もしていますが、生業として言語聴覚士という言葉のリハビリテーションや支援に関わる仕事をしています。浪曲、演歌歌手の三波春夫は「お客様は神様です」という言葉を残しましたが、私にとって、私を言語聴覚士として社会的価値を与えてくれて、しかも、経済的に支えてくれる方々は、言語や聴覚に障碍のある方々なのだと思います。サービス提供している立場にいる私が、言語や聴覚に障碍のある方々を支えているかどうかは怪しいものです(彼らにしかそれは分かりません)。しかし、私は言語や聴覚に障碍のある者に物心共に支えられているのは当の私が言うのでですから明らかです。
ですから、本当は彼らに私はお金を払わなければならないと思っています。言語聴覚士として頼って頂きありがたく思っています。
私の救いというのはこのような弱さのある方々から与えられているように思います。
さて、本日の列王記上17章には預言者エリヤが出てきます。神の言葉を語る人のことを預言者といいますが、このエリヤは一般住民です。特に偉くもありません。しかし、この庶民のエリヤは悪政を敷く北イスラエルの王アハブに干ばつが起こることを主の言葉として語ります。おそらくアハブ王にエリヤは追われたのでしょう、エリヤは主の指示で逃亡し、川のほとりに身を隠し、その後、異教の地、シドンのサレプタというところに行き、貧しいやもめとその息子のいる家に入り世話をしてもらいました。その家では食料が枯渇する寸前だったのですが、エリヤは自分に食事を提供するように求めます。自分たちはもう死ぬだけだとやもめはいいつつ、エリヤに食事を提供したら何と食料は以後満たされ続けていきました。奇跡です。さらに、息子が病死するという悲劇が起こるのですが、エリヤの祈りによって生き返るという奇跡も起こりました。
この預言者エリヤは本日のマルコ福音書にはモーセとイエスと3人で語り合ったという記載(ここも奇跡的出来事です)があり、モーセやイエスと同じくらい人々を救う救済者として描かれているように思います。そして、イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはならない」と弟子たちに語ります。ここで人の子は死に追いやられることが分かります。復活とは死から救いが生じるという事です。イエスの死と復活を確認した弟子たちヨハネ、ヤコブ、ペテロはこの出来事を伝承していき福音書編集者たちが福音書に取り入れたのでしょう。
わたしは本日の聖書の個所から思うのです。
救いは死に近い状態にある人々から生じるのではないかと。死に近い人々とはエリヤのように悪の権力者に神の言葉を伝え追われる者や貧しさを強いられているやもめと息子のような社会的弱者。病や障碍を負う者、被差別者や虐待を受ける者、いじめられる人達もそうでしょう。そういう人々と共に救い主がおられ、救いの業を行っていっているのではないかと思います。
言語や聴覚に障碍のある者が私言語聴覚士に救いをもたらしているように、この世(神の国ではありません)では力ない者が力ある者に、貧しい者が富める者に、無名の者が名声のある者に、支えられる者が支える者に、学ぶ者が教える者に、癒される人が癒す者に、支配されている者が支配している者に、負ける者が勝つ者に、受ける者が与える者に、差別される者が差別する者に神様の救いをもたらしているのではないでしょうか。イエスの十字架を思えば、殺される者が殺す者に神の救いをもたらしたのですから。それに気が付けば全くの不条理ではありませんか。さて、「その不条理に気づいたあなたはこの世で何を成すべきか」と神様に問われているように思います。私はその不条理をこの世で少しでもなくしたいと思っています。
あっ、そうそう、牧師が神の名を語って信徒や人を支配すること。これだけは絶対にしないよう私は注意したいと思っています。
みなさまの祝福を祈ります。